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Robert Todd Carroll

SkepDic 日本語版
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インタビュー

The Sydney Morning Herald **  Philosophers' Web Magazine 


FAQ (よくある質問)

Q. あんた、いったい何様のつもりだ?

A. あなたの質問はつまり、私にいったいどんな権利があって、無数の人々が何千年も支持してきた信仰に異論をはさむのか、ということだと思います。大切にされてきた信仰に対して挑むことは、とくに私なんかよりずっと賢くて知的な人たちがそうした信仰を支持してきたゆえに、あなたには頑固で無作法なものと映るのかもしれません。では代わりにどうすればいいかというと、私が思うには、考えたりせずに信仰の問題をただ受け入れてしまうか、それとも、すでに確立された信仰との整合性を失ってどうしたらよいかわからなくなったときだけ考えて批判的に検証するか、そのどちらかでしょう。ですが、私にはどちらもいい方法だとは思えません。

私は人間の意識に限界があるということを理解しようとしていますし、私の信仰は現存する証拠のうち、最も良いものに基礎を置こうとしています。こうした証拠は最良の検証方法を用いて、注意深く考察して議論されることで、つくられたものです。私の信仰は、たとえけっして間違いのない真実だろうと信じていることがらであっても、まったく暫定的なものです。

私は何が真実で何が誤りかについて先入観を持ってはいませんし、信念にもとづいて判断したり信念を自己弁護したりするわけでもありません。どんな人もそうであるように、私だって間違える可能性はあるのです。ですが、私は自分の誤りを永久に自己弁護し続けるよりは、それを修正していく方を選びます。

Q. 懐疑論者は懐疑論にも懐疑的なのですか?

A. これは、アウグスチヌスの疑問に似た疑問を抱く人から、よく質問されることです。アウグスチヌスは“我が疑うことに疑いはないのか?”と自問しました。答えは、“疑問を抱くのがアウグスチヌスやデカルト なら答えはノー、サガンやグランヴィル なら答えはイェス”です。(この問題について深く知りたければ、R.H.ポプキンの History of SkepticismThe High Road to Pyrrhonism を読んで下さい。)

Q. 科学はすべての疑問に答えられるのですか?

A. いいえ。科学が答えられるのは経験的な疑問だけです。

Q. 科学は経験的疑問すべてに答えられるのですか?

A. はい。ですが答の多くは間違っているかもしれません。

Q. 経験論者はみんな無神論者なのですか?

A. いいえ。無神論者もいますし、不可知論者も有神論者もいます。この点では、懐疑論者は科学者が野球選手を兼ねていたりするのと同じです。

Q. 懐疑論は科学に忠誠を誓う宗教の一種じゃないんですか?

A. いいえ。懐疑論はまとまった信仰ではありませんし、礼拝行事をしたり、特定の生活様式を唱道したり、誰かや何かを崇拝したりするわけでもありません。科学を信頼するのは、忠誠ではなく根拠によっているのです。それに、無制限に科学を信頼するわけでもありません。宗教的ドグマとちがい、科学理論はいつでも暫定的な代物であって、変更されることがあります。科学は道理に合わないことがら(error)を掘り起こすものであって、宗教のように信仰への挑戦を封じ込めることで永続化を図るものではないのです。

Q. 懐疑論者は何を信じているのですか?

A. 懐疑論はまとまった信仰ではありませんから、懐疑論者すべてが支持するような信念といったものは、それほど多くないでしょう。もしそういうものがあったとしても、そうした信念は懐疑論の実態を明らかにするものではないでしょう。なぜなら、そうした信念は、懐疑論者でない人にも支持されるものでしょうから。

Q. 懐疑論者はふつうの人より不道徳(immoral)なんじゃないですか。

A. これは何を'不道徳(immoral)'とするかによります。ユリ・ゲラーやエドガー・ケイシー、サイババ、チャールズ・ベルリッツ、J・Z・ナイト、フレデリック・レンツ、L. ロン・ハバード、ジョエル・D・ウォラック、ディーパック・コプラ、アンドルー・ワイルなどの言い分を疑うのが不道徳だと言うなら、たしかにそうでしょう。ですが、懐疑論者がそうでない人と比較して、殺人やレイプ、強盗や児童虐待に密接に関与しているなんていう研究結果などは、聞いたことがありませんが。

Q. 懐疑論者は、自分自身の存在には理由があると信じているのですか?

A. 信じている人もいますし、信じていない人もいます。私の場合、人の一生の目的は、その人自身によって与えられるものだと信じています。つまり、意味のあることをしようと思えば、人生は意味のあることになるのです。無意味な存在として生きようとすれば、人生は無意味になります。

Q. なぜアムウェイを嫌うのですか?

A. アムウェイを嫌っているわけではありません。しかし過去3年間、アムウェイの項目はThe Skeptic's Dictionaryの中で最も人気があります。私はこのことに満足しています。

Q. “この世で無限なのは、私たちの自己欺瞞の精神だけだ”という格言ですが、どこにあったものですか?

A. 自分で考えました。表現に誇張がありますが、いい感じだと気に入ってます。

Q. 論理と合理的分析は愛や笑いといったことがらを理解するのに、役に立つと思いますか?

A. はい、かなり役に立つと思います。ですが、経験が必要なことがらではよくあることですが、内的感覚は外的観察へと還元できません。感情やムードは科学的に研究することができますが、すべての経験には、科学に勝る主観的要素が伴います。しかし、科学に勝るということは、事実に勝るということではありません。主観的な経験は事実に勝ることはないし、外部の観察へ還元できないからといって超自然現象への扉を開いたと考えるのも妄想にすぎないと私は思います。

Q. 懐疑論者は否定的だ。なぜもっと肯定的にものを見られないの?

A. 否定的であるということは、とても肯定的であるということでもあります。説明しましょう。ニヒルなのと否定的なのでは、主張を信じたり説明を受け入れる前に、注意深く批判的であろうとするところに、違いがあります。ニヒリストはどんなものの価値も否定します。私には、宗教者の多くがニヒリストに思えます。彼らはこの世界の価値を否定するからです。宗教の指導者たちは、しばしば家族や生殖、肉体的楽しみ、芸術や自然の喜びを拒絶します。多くの聖人たちはこの世界を拒絶して隠者として生きたり、人間社会を拒絶して隠遁生活に加わったりします。これこそが本物のニヒリストです。病的なまでに否定的なのです。考えてみて下さい:子供に道路で遊ばないよう言いつけたり、子供にポルノを売りつける隣人を批判する時、あなたは“否定的”になるでしょう?批判的で注意深く、アイデアや行動や信念を拒否するのは、結果において肯定的な場合が少なくないのです。

Q. 本物の懐疑論者は不可知論的だ;あなたは強い意見と信念を持っている。いったいどうして自分のことを懐疑論者と呼べるんだ?

たしかに、‘懐疑論 skeptic’と言う語はギリシャ語のskeptikos 思慮深い、熟考的な)から来ていて、懐疑論者はものごとを注意深く熟考する探求者、と受けとられがちです。そして ピュロニストや学問的懐疑論者といった人達によって発展してきた哲学的懐疑論が、あらゆる命題について疑問を投げかける、というのも事実でしょう。哲学的懐疑論者の主要な関心事項は、絶対真などありえない、ということを示すことのようです。哲学的懐疑論者のうちでも、もっとも過激な人達は、絶対的な真実などありえないということさえ、事実かどうか確かめることはできないのだ、と主張しています。

しかし、こうした自明な主張の次に続くことがらは、どれ一つとして受け入れられるものではありません。たとえば、確かなことは何もないのだから、すべての意見にたいする判断を中止して、何も信じるべきではない、ということにはなりません。確かなことは何もないのだから、習慣や伝統的信仰を受け入れるべきである、ということにもなりません。ある信仰と他の信念は等価である、ということにもならないし、すべての信念が、無分別な信奉と同等であるということにもなりません。ここで述べた推論は、みな多くの人が過去に書いたことですが、確かなことは何もない、という命題から導き出されうる、有効な論理的推論とはとても言えないのです。

私は信じることと信じないことを分けていますが、これは哲学的懐疑論から直接的に結論づけているわけではありません。確かなことは何もない、というのは受け入れますが、ここから推論できるのは、私の信念のうちには、非の打ち所がないほど確かなものなど何もない、ということだけだと思います。どれほど期待してみても確かだなどとは到底言えず、せいぜい蓋然性が高いと言うぐらいしか、できないのです。蓋然性は日々の生活や科学には十分役に立つと思います。絶対的な真実を追い求める人はこうした意見を認めないでしょうが、これは感情や情緒的理由にもとづいています。思考にもとづくものではないのです。

私はここで、‘蓋然性’という語で‘数学的確率論’を意味しているわけではありません。明日の朝日が東から昇る可能性を考えてみますと、数学的確率論ではゼロかもしれませんが、人が合理的説明をするのに依存する蓋然性ではこの可能性は非常に高いのです。認識論的には、明日の朝日が東から昇る、というのは絶対真だとは言えません。ですが、明日の朝、東の方へドライブをするとなったらサングラスを持っていきますし、そうしても何かを信奉しているということにはならないでしょうし、それに西の方へドライブするとしても同じことでしょう。

最後になりますが、‘懐疑論者’という語は、今日では断定的主張や一般常識にたいして本能的あるいは習慣的に疑問・質問・反論を抱く人、あるいは神の存在・天啓に疑問を抱く人あるいは知識に絶対性などないし、探求とは、おおよその確からしさや相対的確かさを手に入れるための、疑問を持ち続けるプロセスであるべきだ、と考える哲学的懐疑論者を指します。これらはみな、オカルトや超自然現象、超能力、疑似科学などの、およそ不確かな主張をシステマチックに拒否する、という意味では矛盾してはいません。

Q. 本物の懐疑論者は心を開いているものだ;あなたはオカルトや超自然現象や超能力にたいして心を閉じている。いったいどうやったら自分のことを懐疑論者と呼べるんだ?

心を開くということは、破綻しているアイデアや主張が生まれるたびに1から吟味する義務がある、ということではありません。オカルトや超自然現象に関する主張を吟味するのに、私は何年も費やしてきました。宇宙人に誘拐されたと言うが、物理的証拠が何一つないような場合、私は調査の必要を感じません。こうした人達の言う証拠が、何時間か何日かの間、何が起きたのかまったく覚えていないんです -- 誘拐されたという人にありがちな主張です -- ということだけだったら、私は記憶喪失の説明する理由について心当たりがあるのですよ。たとえば、どこにいたか他人に知られたくないからウソをついているのだとか。それとも自己暗示にかかってしまったとか;つまり夢か幻覚を見たのです。

自分は神だとか、神の声を聞いたとか言う人の場合、彼は間違ってるか、でなければ詐欺師だと思います。私は心が狭いですか?そうは思いませんけど。ですが、何年も前にUFOと宇宙人の誘拐話をはじめて聞いたときに、この問題をよく調べていなかったら、私は心が狭くて信じてしまってたかもしれません。私は、自分が神だとか死後の輪廻転生があるとか言う人たちについても調べてみました。自分を神だと言うテキサスの若者がFBIの捜査官を撃ったとき、私はべつに驚きもしませんでしたし、彼の神性をしらべねばとも思いませんでした。私は心が狭いですか?そうは思いませんけど。この問題を深く調べてみれば、心を開くということが、心の扉を開けっぱなしにして、人生を誤らせるようなバカな考えが入ってくるに任せることじゃない、ってわかるでしょう。心の扉に錠前をかけておけ、と言っているわけではありません。宇宙人の身体やUFOの一部でも持っていると主張するなら、そいつを調べてみましょう。本当に水をワインに変えたり、死人を自由に生き返らせられるなら、私は神性に関する意見を再検討するでしょうね。

開かれた心を持っていても、経験が乏しく情報も持っていない人は、すでに経験豊富で情報十分な人にとって議論の余地がないような問題についても、調べる必要があるんじゃないか、と思うでしょう。開かれた心を持って考えるなら、答えは自分で見つけなければなりませんが、いちど見つけてしまえば、その人は心の狭い人間にはなりません。なぜなら、意見は情報で裏づけられているからです!ですから、この次にアストラル・プロジェクションや前世回帰や宇宙人誘拐説の信奉者が、懐疑論者を“心が狭い”と非難していたら、懐疑論者は必ずしも心が狭いわけではない、ということを教えてあげてください。おそらく、その人は他人に言われたことを鵜呑みにしているのでしょうから。

Q. あなたの意見はいつでも一方的だ。あなたは自然法則を破るようなESPや魔法、奇跡、発明などに議論の場をまったく与えない。公平のために両方の意見を書くべきではないですか?

もし私が本をもう1冊、たとえばトンデモ信仰に対する批判精神のアプローチ、なんていう本を書いていたら、議論はまた違ったものになったことでしょう。この場合、一つの問題についてあらゆる角度から議論して、どちらを受け入れるかなどは、読者に決めさせます。しかし私はこの手の本は書いてません。私はオカルトや超自然現象、超能力、疑似科学の主張について、読者に懐疑論的な議論と参考文献を提供するために本を書いたのです。懐疑的でない文献なら、それこそ山ほどあります。私の目的は、出版界で失われがちなバランスをとることです。

Q. 懐疑論って、何かいいことがあるの?懐疑的なことで、何か得するの?

カールセーガンが、 カールセーガン科学と悪霊を語る の中で書いている、``トンデモ話''を見破る技術 というエッセイが見事に説明しています。情報を探して評価する時は、懐疑論が最も役に立つと私は思います。私は最近、精神病理について、とくにうつ病と両極性障害(そううつ病)について研究しています。私が読んでいる本の1冊は精神病理学者が書いたもので、もう1冊は医学博士ですが精神病理学者でも臨床医でもない人が書いたものです。精神病理学者の方は活発に活動している研究者で、臨床医でもあります;精神病理学者でない方はハーバードの医学部を卒業したあと、研修医にならずインドへ行き、そこで数年間の精神修行を行なったそうです。この精神病理学者でない方は、有名なアンドルー・ワイルです;精神病理学者は有名ではありません。精神病理学者でない方は公共放送の番組や独自のWWWページ、自然治癒 (Spontaneous Healing) という著書をはじめとしてベストセラーを何冊も持っています。この本にはうつ病について書いている部分がページあります。著者は“私が知る限り、うつ病に効く唯一の方法は”などと書き、これに続いて必要なビタミン、ミネラル、アミノ酸をいくつか挙げて、エアロビ運動をするよう述べています。彼はこうした処方がなぜ効くのか、その理由を一切書いていません。読者はこの処方を忠実に信じなければならないのです。

精神病理学者の方は、逆にうつ病と似た症状を示す身体的不調をたくさんリストアップしています。ビタミンやミネラルの欠乏や、運動不足からうつ病に似た症状を示す人もいるということを、私はこれを読んで信じるようになりました。本物のうつ病が、きわめて複雑な神経化学的な問題であるということも信じるようになりました。この精神病理学者は研究やケーススタディを引用しており、意見を裏付ける議論もおこなっています。

私はワイル博士の主張には懐疑的です。彼の言い分を忠実に受け入れたら、きっと悲惨な目に遭うことでしょう。害をなすような主張を疑うということは、懐疑的であるべき理由の一つとなるでしょう。

私の知っているある人は、自分がFBIとCIAに尾行されていると主張しています。彼は、番号が5ではじまるナンバープレートは邪悪で、ドライバーを国外追放すべきだと言います。私は彼の主張には懐疑的です。なぜなら、ごく平凡な彼が政府機関の関心をひくなどありえないからです。もっとも、国税庁(IRS)は別かもしれませんが。彼の言う邪悪な連中が、どうやって全員同じ番号で始まるナンバープレートを手に入れるのか、彼は説明できません。彼の言い分を信じるに足る理由は、私には見出せません。彼の言い分はほとんど間違いで、脳内の化学作用のアンバランスで生じた妄想の産物でしょう。日頃から彼の言い分に懐疑的なおかげで、いかがわしいウソや妄想概念にも私は懐疑的でいられます。

理由は基本的に上に述べたのと同じことです:主張にたいする証拠と議論を求めているのであって、忠誠の表明を求めたりせず、真偽が疑わしく実効性に乏しい妄想概念を拒否して、有効な意見や研究を無効なものと区別して、確固たる根拠に裏づけられた主張を受け入れることは、ものすごく合理的で実用的だと思います。

実際、私の信念が、願望や欲望、希望、欺瞞、妄想、幻想、フィクション、ごまかしに基づいたものでない、それだけのことを何故かと不思議に思う人がいることに、私はあきれてます。

さらには、懐疑論の価値は歴史を調べてみてもわかります。異端審問やホロコーストは、頑迷と教条主義の結果です。懐疑論者が運営している政治組織や宗教組織は、頑迷な教条主義者が支配するものより人間的で健康です。寛容と近代的な科学的方法論は、ともに17世紀イギリスの経験主義から生まれました。イギリス経験主義には、王党派の形而上学と絶対的真理への欲求を拒否する、ということが中核にありました。カリフォルニアのピート・ウィルソン議員のように、“自分は絶対正しい”と断言するような政治家から恩恵を得られる人はいません。彼は16年前に、レイプと殺人の容疑者について、そう言ったのです。トーマス・マーチン・トンプソンはレイプと殺人で有罪かもしれません。死刑に値するかもしれません。しかし、トンプソンが絶対に有罪だとは、ピート・ウィルソンも、誰にもわからないのです。

Q. デカルトは我思うゆえに我ありと言って、少なくともいくつかのことがらは絶対に正しいと証明したんじゃないの?たとえば実存とか。

デカルトが自身で証明したと考えたのは、神が存在して他のすべてのものも存在する、これは絶対真である、ということです。彼の省察 (Meditations on First Philosophy)を読んでみて下さい。デカルトが絶対に正しいと主張したことがらの多くは、還元論といわれています:これらが真であるというのは因習的な問題であり、またすべて意味論や文法に則ったもので、経験的発見にもとづくものではないのです。デカルトが主張した他のことがら、たとえば“神は実在する”という命題が絶対真でも還元論的でもない、といったことも、絶対的に正しかったのです。“2+2=4”は、‘2’‘+’‘=’‘4’などが、ある特定の意味に定義づけされた場合には正しく、別の定義の下では間違いになり得ます。たとえば、雨滴2滴と雨滴2滴を足しても、4滴にはなりません。水2リットルとアルコール2リットルを足しても、4リットルの液体にはなりません。言葉と記号が、他の言葉と記号との関係を抜きに独自で意味を持つことは、ほとんどないのです。命題の真偽は、それが何を意味しているかによります。そして、何を意味しているかは文脈によります。とりわけ他の言葉や記号との関連性という文脈に左右されるのです。そして、言葉と記号の意味が用いられた背景にも左右されます。

Q. ロバート・アントン・ウィルソンは懐疑論者に“不合理な合理主義者”のレッテルを貼り、懐疑論者は“新・宗教裁判”をやっている、と糾弾しています。こうした懐疑論批判に対して、あなたならどう反論しますか?

A. まず、ウィルソンは哲学的懐疑論者と一般的な懐疑論者の違いを知らない、と言うでしょう。次に、カール・セーガンがカールセーガン科学と悪霊を語る で述べたことに同意します:``信仰を強要する懐疑主義者はいない...。ニューエイジ信奉者は、...犯罪法定に引き出されるわけでも、幻視を見たからといって鞭打たれるわけでもないし、ましてや火あぶりの刑に処されるわけでもない''(セーガンp.301)。心を開くということは、だまされやすいこととは違うはずです。どんなアイデアも平等だと考えて無批判に受け入れるのは、美徳でもなんでもない。合理的な人は経験から学び、厳しい経験的なテストに合格したアイデアと、不合格になったアイデアを選別します。合理的な人は、たぶんそうだろう、といった理由でものごとを信じたりはしません。合理的な人は、確からしいアイデアや意見と、そうでないものを選別します。合理的な人は、対照群や二重盲検法といった客観的なテストを信頼して、ないものねだり組織的強化, 確証バイアス, コールド・リーディング主観的な評価の危険性を、経験から学び取っています。人は、ほとんど可能性のない意見を批判したり挑発したりしても、不合理になったり異端審問官のようになったりはしません。一般的な懐疑論者は、チャネラー霊媒師のようにオプラ・ウィンフリーやラリー・キングのテレビ番組にゲスト出演したりもしません。そんな時代に、懐疑論者が宗教裁判をやっているなどと言うのは滑稽です。懐疑論は迫害されているわけではありませんが、のではなく、エンターテイメントの主流としてはまったく考えられていないのです。懐疑論はニューエイジやUFO話ほど注目を集めたりしません。本物の審問官は教会だけでなく人々の支持も得ています。超能力や超自然現象にたいして多くの科学者は懐疑的かもしれませんが、こうした懐疑論は Science 誌には影響力を持っていません。それに、悲しいことに圧倒的大多数の人は懐疑論者ではなく懐疑論者が批判する相手に賛同的なのです。懐疑論者が異端審問に関わったら、審問会は想像もつかないほどヘンテコなものになるでしょう。権威を持つ中心人物や組織がないから、審問はどこへ流れていくかわからないし、審問を支持すべき人々が懐疑論を知らないし、もし知っていても懐疑論者を無視したり、黙らせたりするでしょう。

Q. あなたはどうやって朝ベッドから起きるのですか?つまり、信仰心がないというなら、あなたの希望は何なのですか?神に祈ることができないなら、人生に起きる悲劇をどうやって乗り越えていくのですか?妖精や幽霊やクリスタルのように魔術的なことがらを信じられなくて、人生が面白いですか?あなたの人生は冷たく退屈で、どんな魔法も効かない悲しい存在だと思います。

A. 私はベッドにで寝ころんだまま、自分が目覚めているのだとか、ペブルビーチで64口径を撃っているとか、ガンの治療法を発見したとか、両親はまだ他所の街で生きてるとか、中東の恒久的平和をはじめて実現しただのと思い込んで、自分を欺くことはできます。欺瞞が欺瞞でない、真実なんだと思い込んで、自分を欺くことができたとしても、それで人生を``魔術的''にしたことになるでしょうか?誤った希望は、希望がないよりマシでしょうか?私はそうは思いません。

人生の苦労や問題には、私もまた相応に直面してきました。そのいくらかは神を信じていた若い頃のことでしたが、ほとんどは歳をとって無神論になってからのものでした。神への信仰がこうした苦しみを和らげてくれたとはいえませんし、必要な時に助けてくれると希望していたよりは、ずっと少ないものでした。神への信仰よりも、私より苦しんでいる人がいる、誰でも痛みや苦しみなしに生きることはできない、ということを知るほうが、私にはよほど慰めとなりました。もし神を信じていたら、神がなぜこのような残酷と悲劇をなすのか、私は疑問に感じるでしょう。不思議だがきっと意味があることに違いない、などと考えても、満足しないでしょう。神様なんかで満足しなきゃ、いけないんですか?もし政府があなたの子供を取り上げて、これは善きことのためなのだよ、と言っても、あなたは満足できますか?神が何らかの善きことのために、これほどの悲劇が起こるのを許すというなら、私はなおさら神を受け入れられません。

妖精やイースターのウサギや、悪魔や幽霊やマジック・クリスタルなんかがなくても、人生は全然退屈じゃありません。人生は、退屈な人には退屈なのです。たしかに、親友が殺されたときには、公園を散歩したりビーチへ出かけたりして楽しむことはできません。火事で家と全財産を失ったときには、好きな本を開いて楽しんだり新しい分野のことがらを深く学んで知識を広げたりするのは不可能です。旅行の楽しみは、泥棒のせいでおしゃかになったりします。殺人や雷や泥棒に遭うのをコントロールして避けることはできませんが、こうしたことがらに対処する方法はコントロールできるかもしれません。悲しみは避けられないかもしれませんが、愛する伴侶と家族がいれば、人生の悲劇とつき合っていくのはやさしくなるかもしれません。ですが、これだけは言っておきます。人の苦しみについて、有神論者が無神論者よりうまく折り合いをつけている、という証拠は見たことがありません。人が困難にどう向き合うかは、魔法や高度な力を信じるか信じないかという以上に、心理学や生物学や運が関わっています。

R. T. Carroll - July 31, 1997

参考文献

Sagan, Carl. The Demon-Haunted World - Science as a Candle in the Dark (New York: Random House, 1995). $11.20,Review.
(カール・セーガン, カール・セーガン 科学と悪霊を語る. 青木 薫訳. 新潮社.)

Copyright 1998
Robert Todd Carroll