玲奈の逃飛行

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『ちびくろサンボ』の復刻を支持する理由

以下は、ウェブだけで仕入れた情報にもとづいて書いた  8/20のノート のあとで、 『『ちびくろサンボ』絶版を考える』(径書房編 '90.8)、 杉尾敏明・棚橋美代子『ちびくろサンボとピノキオ』(青木書店 '90.12)、 エリザベス・ヘイ『さよならサンボ』(平凡社 '93.1)という、絶版後に 出された代表的な問題提起の本を読み、私の考えをまとめたものです。 基本的には8/20の時点で考えていたことと違いはありませんが、事実関係がよりはっきりし、 ウェブでの情報はほぼすべて、これらの本(ほとんどは『絶版を考える』)から抜いたものだとわかりました (それを明記していないページが多かった)。

3冊めはまだ読みかけであり、灘本昌久氏の新刊『ちびくろサンボよすこやかによみがえれ』 (復刻版『ちびくろさんぼ』と同時に径書房が出版したもの)をまだ入手していないので、 それを読むとまた補足・訂正すべき点が出てくると思います。 (99/08/24)


私はこの作品を、名作だからといった理由で擁護するつもりはありません。 この春に出版された日本初の復刻版を支持しているのは、別の理由です。

復刻版を手にして、 この作品がステレオタイプかどうか、の前に、この作品を批判する人たちの 「ステレオタイプな見方」について疑問をもったのが発端です。 それでまず原作をできるだけ思いこみを排除した目で見ること、そして、事実経過を知ることからはじめました。

おもな論点をあげつつ、コメントしてみます。

『ちびくろサンボ』は黒人をステレオタイプにあつかっているか。

日本で普及した『ちびくろサンボ』は、1953年に岩波から出たものが最初ですが、その25年前にアメリカで出版された異版をもとにしています。それは、すでにアメリカでは、黒人奴隷を連想させる、時代遅れで嫌われはじめている絵でした。 その本は 1988年に絶版にするまでの35年間で、文章の一部をさしかえた以外はそのままで、120万部売れたロングセラーでした。 バナーマン自身の絵は――好みは分かれるでしょうし、現代人の目からすれば素朴すぎますが――一般にいわれているような意味でのステレオタイプでは決してありません。彼女は娘のために、「どこか遠いところ」、ジャングルやトラの出てくる場所を想像し、そこにふっと浮かんだ黒人の少年を描いたといっています。 イラストは、単純化した大胆な線で描かれ、日頃スケッチや絵手紙を欠かさなかったバナーマンが、離れて暮らす子どもを元気づけるために作った絵本であることがうなずける楽しい絵です。

原作では、サンボはサルのような未開人や能力の低い人間のように描かれても いません。当時としては裕福で(テーブルにちゃんと白いクロスをかけて食事している)、やさしい両親と幸せそうな家庭が描かれています。

ステレオタイプな見方はいけないのか。

もちろん、描くうえで、ある種の一般化や抽象化はとうぜんおこなわれたでしょう。特定の少年の似顔絵を描くのが目的ではないのだから。

そうした一般化をもステレオタイプというなら、それを避けるためには、写真を載せるしかないでしょう。それでも、どんな写真を選ぶかによって、作者の見方は反映されるし、さらには読む人の目がその写真にステレオタイプを抽出することはまぬがれません。文字だけの本でも事情は同じです。 「いけない」と主張する人は、ではどうすればそれをせずに絵本や文学が可能か、見本を示してほしいものです。

インドが舞台として正確に描かれているかどうかは、重要な問題ではないと思います。 トラが最後にはバター(ギー)になってしまうとか、パンケーキを169枚もたいらげる、というおとぎばなしなのだから。 子ども向けの絵本に、地理的その他の厳密さを要求して、この作品の欠点だとあげつらうとしたら、不公平だし、それが絶版に値するものかどうかは問うまでもないでしょう。

また、サンボが特別に勇敢で優秀な子どもとして描かれていないとしても(私自身は、なかなか勇気と機知に富んだ元気な子として描かれていると読みましたが)、そういう黒人の子を描いた本がほかに存在しないのは、バナーマンのせいではありません。

むしろ、日本においても(おそらく当時の米英においても)、肌の黒い子どもが主人公になった画期的な物語の登場というポジティブな価値を評価すべきではないでしょうか。

ステレオタイプな見方が差別を助長するか。

そのようなあいまいな説がまかりとおっているのは、なぜなのでしょう。 そこには、現状肯定の保身的な欲望がはたらいているような気がしてなりません。 「この本が差別を助長する」という(実証不可能な)考えに与することは、現実の問題点から関心をそむけさせ、そういう世の中の維持を「助長」することです。

差別は、ステレオタイプを見出す人の心のなかにすでにあります。 社会の人間関係がいわば実質であって、その影である作品のほうをとやかくいうのは本末転倒だと思います。 また、ステレオタイプというか、ある種の一般化は、人間の世界のものの見方として不可欠なもので、この作品だけを責めるのはそれこそ差別というものでしょう。

『ちびくろサンボ』をアメリカの黒人に描き換えた絵本がアメリカで広く出回ったころ、19世紀からあったミンストレル・ショー(白人が黒塗りして、黒人を戯画化・道化にして舞台で歌い演じた。これがサンボと呼ばれた)の、まさにステレオタイプな黒人イメージと重なったといわれています。 (日本にもっとも早く伝わった黒人イメージもこれだそうです。19世紀末、日本に寄港したアメリカ軍艦の白人水夫たちによるミンストレル・ショー。 インド人といえばターバン、というイメージの広まり方を連想させますね)

けれども、「そのサンボは、白人の与えるサンボのステレオタイプを受け入れながらも、それを乗り越える形で黒人たちが自分たちなりのモダンな文化を創ってきた歴史をもっている」と指摘する専門家もいます。 サンボを抹殺するのではなく、黒人が自らそのイメージをプラスに塗り替えるような方向を、私も向いていたいと思うのですが。 (日本だから、アメリカじゃないから、サンボでOKということではありません)

「今の社会ではこの本を正当化できない」とか「適切ではない」ということ。

私はそういう発想に、硬直した危ない思想を見いだします。 作品の「正当化」は、だれが判断するのか、ということです。 優秀でハンサムで裕福で性格もよい黒人の少年を主人公にした、 「差別用語」のない、美しい物語であっても、退屈なだけの作品 かもしれません。もちろんそれを好む読者もいるかもしれない。 ほかにも、無知ゆえにか故意にか、悪意や差別に満ちた作品はいくらでも あります。けれどもそれらの本が世の中に差別を増やすのではなく、作品 はむしろ、世の中の投影なのだと思います。

「サンボ」は差別用語なのか。

岩波書店が絶版にふみきった決定的な理由としてこれをあげています。 岩波から出ている英和大辞典にも(初版1970年)、「1.アメリカインディアンの白黒混血児と黒人との混血、2.あだ名、黒ん坊、ニガー」。ほかの辞書にも、 侮蔑的な使い方がされている、と説明されています(逆に、原作が書かれた頃のオックスフォードには侮蔑的な意味は出ていない)。

88年に「黒人差別をなくす会」から抗議を受けるまで、そのことを 岩波は知らなかった、といい、さらには、サンボの両親であるマンボ・ジャンボを調べてみると、「ちんぶんかんぶん」という悪い意味があるとわかった、と釈明しています。

安江社長は、 「私たちは間違いを犯した被告の立場なんです。……これは明らかに差別的な本です。 私たちは知らなかった、迂闊だった、そのことについては謝らねばならない。…… みずから差別を助長しながら、出版の自由を守ろうとする、そういう考えは私たちには ない。(インタビュアーの「この本が差別的かどうか簡単には言えない」という意見に 対して)そんな簡単なことがどうして断定できないんですか。私たちは断定している。 そうでなかったら、絶版なんてしませんよ」 と答えています。

この返答は、「黒人差別をなくす会」の訴えに折れて、面倒だから逃げたんじゃないか、という私の偏見とは異なっていましたが、いっそうがっかりさせるものでした。 なぜならば、このうろたえぶりから見て、岩波の人たちは、ほんとうに自社の出版物が差別のない本ばかりだと信じているみたいだから。 「差別書」かどうか断定的に区別することが可能であると思うこと自体、ナイーヴすぎるし、そのかんちがいは、危険なことでもあると私は思うのですが。

また、ここには、「サンボ」という言葉(と自分の無知)に罪をかぶせ、原典を無視して採用した異版がすでに25年前の古い黒人のステレオタイプであった、という、より重要な責任については頬かむりしようとする姿勢が見られます。そうして、 「どうして『ちびくろ・さんぼ』が、そんなに、 すべてに優先して、決定的に大事なんですか」と話をずらしています。

そもそも、「サンボ」が差別語という判断も、疑問です。 差別的に使われることはあった(ある)でしょう。けれども、単語ひとつを切りはなして「差別語」というものは存在しない、と私は考えます。 「差別語」として「サンボ」が使われることがあるのは、そこに差別的関係があるからです。 (業界の差別用語集みたいなのは、方便として存在しているのでしょう)

ついでに触れておくと、サンボというのは、ネパールの山地民族シェルパ族に 見られる少年の名前だ、という説が近年出ているそうです。

いわゆる「差別語(たとえば「サンボ」)」が使われていれば 「差別作品」か。

ナンセンス。

とにかく、この本を読んで痛みを感じる人がいるのだから、絶版にすべき?

たとえば、「『ちびくろサンボ』のために1人の少年が傷つくとしたら、すべての子どもたちにとってもこの絵本は必要でない」と語る絵本作家がいます。 こんな考えでよく自分が絵本を描けるものだと感心します。それとも、自分の作品だけはこの基準をあてはめないのかな。それとも、自分には差別する意図などまったくないから、あらかじめ無罪放免だとでも思っているのかな。

『ちびくろサンボ』をけなす人のなかには、こうしたダブルスタンダードの基準を無自覚にあてはめていることが多いのもあきれます。 似た発言をした絵本作家は複数います。ああ絵本作家ってやっぱりそういう ナイーヴちゃんなんだという偏見が上塗りされてしまいそう。

こういうロジックに酔える人は、1人の子どもを生み出すのと同じような思いで1つの作品を生み出してはいないのだろうか。

「私は傷ついた」というだけで、1冊の作品が葬られることを認めるとしたら、人はどのような社会で生きてゆくのでしょう。差別だと感じる人がいること自体は受けとめてゆくべきだと思いますが、すべての人がそれを差別だと認めなければいけないとしたら、怖い話です(絶版という処分は、それを強制したようなものです)。 その作品がなくなれば、「傷ついた人」は気持ちがせいせいするかもしれませんが、作品を犯人に仕立てただけで、なんの問題解決にもなっていないことは明らかです。

そこには、「差別をなくすことは他人の痛みを感じること」という 自己陶酔的であやしげな呪文が人々を侵食しているのを感じます。そんなことで差別を減らすことに役立つものか、疑問です。

なぜ私はこの本の復刻を支持するか。

答えはすでに書いてきたことに含まれていますが、 この本が絶版になる理由が見つからないこと、この本の絶版が、黒人にも非黒人にも、プラスになることは何一つ思いあたらないこと。

復刻されることによって、「見えないものに蓋」をしたことで後退した、問題意識が、再燃するきっかけになるといいと思います。たとえそうならなくても、ふつうになにげなく、この本を子どもたちが楽しみ、 大きくなっていつか何かに気づいたり気づかなかったり、そのプロセスが開放されていることだけでも望ましいことだと思います。(絶版される以前のように。そして今回は、原作に忠実な本なのだから、以前よりずっと良いともいえます)

良い作品かそうでないかを論じることは大事だけれど、その評価が、作品を絶版にしてよいかどうかに結びついたものになるとしたら逆効果だと思います。

差別だと感じる場合、その人自身のコンプレックスが原因となっているものも 多く、その克服は、差別的表現を抹殺することではなく、むしろそれを契機として、当人も周囲も社会もプラスに転化していくことを考えていったほうが、解決につながると思います。絶版にしても、差別的状況は温存されるだけです。 「1人でも傷つく人がいれば」という考えも、優しいようでじつは、自分の問題としてとらえたくないから「存在しなかったもの」として見捨てたいだけなのだし、そのほうがひどい差別だと思います。

また、自分はこの絵本の差別性に気づくことができたけれど、続く世代にはそれができないだろうから絶版にしておこう、と、その気づきのプロセスすら抹殺してしまえる発想も、差別意識であることは明らかです。

差別に苦しむ人がひとりでもいない社会にしたいとほんとうに願うなら、差別的な作品はむしろ積極的に議論にして、葬るのではなく、それが社会のなにを投影しているのか、誰を苦しめているのか、それはなぜか、という問題をつきつめていく作業につかっていけばいいと思うのです。


玲奈(rayna@excite.co.jp)
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