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明日の田園都市

Garden Cities of To-Morrow

エベネザー・ハワード 著

翻訳: 山形浩生<hiyori13@alum.mit.edu>



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© 2000 山形浩生
プロジェクト杉田玄白 正式参加作品。詳細はhttp://www.genpaku.org/を参照のこと。このworkは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされている。 著作権者名を残し、この同一条件下で公開する限りにおいて、訳者および著者にたいして許可をとったり使用料を支払ったりすることいっさいなしに、商業利用を含むあらゆる形で自由に利用・複製・改変が認められる。(「同一条件下」だから、「禁無断複製」とかいうのはダメだぞ)


目次

著者の序文

第 1 章  「町・いなか」磁石

第 2 章  田園都市の歳入と、その獲得方法――農業用地

第 3 章  田園都市の歳入――市街地

第 4 章  田園都市の歳入――歳出概観

第 5 章  田園都市の歳出詳細

第 6 章  行政管理

第 7 章  準公共組織――地方ごとの選択肢としての禁酒法改革

第 8 章  自治体支援作業

第 9 章  問題点をいくつか検討

第 10 章  各種提案のユニークな組み合わせ

第 11 章  後に続く道

第 12 章  社会都市

第 13 章  ロンドンの将来

訳者あとがき



著者の序文

「反動の皮の下で静かに集結しつつある、新しい力、新しい渇望、新しい目標が、突然視野に飛び出してきた」――J・R・グリーン「イギリス人民小史」第10章

「変化は多くの場合、議論に議論を重ねて怒号がとびかって初めて生じるので、人々はそれが、ほとんどの人がまるで注意を払わなかった原因によって静かに影響を受けていたことに気がつかない。ある世代では、攻撃不可能に思えた社会的な仕組みがあっても、次の世代では勇敢な人々がそれを攻撃し、そして三番目の世代では、勇敢な人々がそれを弁護するかもしれない。あるときは、きわめて理にかなった議論が推進されようとしてもいっこうに進まず、それどころかそれを口にすることさえ許されなかったりする。別の時代には、実に子供っぽい哲学論だけで、まともな議論が糾弾されてしまったりする。そもそもそうした仕組みは、純粋な理論だけから見ると、おそらくは弁護しきれないのだろうけれど、その社会の意識的な週間や思考様式にマッチしていたのだろう。次の段階では、それはもっとも鋭利な分析ですら説明できないような影響によって変化してしまい、息を吹きかけただけで、その構造をひっくり返すに十分となっている」――タイムズ、1891年11月27日


 党派感情がとても強く、社会問題や宗教問題に大きな対立が見られる今日においては、国民生活と福祉に重要な関わりを持っていて、どんな政治党派や、どんな色合いの社会的見解を持った人であっても異論なく完全に同意するような、単一の課題を見つけるのはむずかしいと思うかもしれない。禁酒運動の話をすれば、ジョン・モーリー氏はそれが「奴隷制の廃止運動以来で最大の道徳運動」であると語るだろう。でもブルース卿はそれに対して「酒造産業は国庫に毎年4千万ポンドをもたらしているので、実際問題としては酒造産業こそがイギリスの陸軍と海軍を養っているといえるくらいだし、さらに何千人もの雇用を生み出している」――そして「絶対禁酒主義者でさえ、アルコール販売免許を持つ飲食店主に負うところが大きい、なぜならかれらがなければ、水晶宮のrefreshment barsはとうの昔に閉店してしまっていただろうから」と注意をうながすことだろう。阿片貿易を論じれば、一方では阿片がシナ人民の道徳律を急速に破壊しているという話が聞こえ、一方ではそんなのはまったくの思いちがいであり、シナ人たちは阿片のおかげでヨーロッパ人たちの想像もつかないような仕事をこなせるようになっていて、しかもその時の食物も、どんなに肝のすわったイギリス人でさえ嫌悪のあまり鼻をつまんで逃げ出すような代物ですむのだ、という議論も聞こえてくる。

 宗教的な問題や政治的な問題は、しばしば人々を対立しあう党派にわけてしまう。このため、落ち着いた冷静な思考と純粋な気持ちこそが、正しい信念としっかりした行動原理に向かって進歩するために必須となるまさにその領域において、戦いの喧噪と、競り合う首長たちの抗争のほうが、いまだあらゆる人の胸をうつことが確実な真理への本当に真摯な愛や国への愛情よりも強力に、見守る人々におしつけられてしまう。

 しかしながら、意見がほとんど分かれることのない問題が一つある。それはほとんどありとあらゆる党の人々が合意している。それもイギリスだけに限らず、ヨーロッパ中もアメリカも、われわれの植民地でも合意されていることだ。その問題というのは、人々がすでに過密となっている都市に相変わらず流入を続けており、そしてその一方で地方部がますますさびれていく、という問題である。

 数年前に、ロンドン郡委員会の委員長を務めたローズベリー卿は、在任中にこの問題を特に強調してこう語っている。

ロンドンについて、わたしは内心で誇れるものはなにもない。わたしはいつも、ロンドンのひどさにうなされている。この高貴な川の岸辺に、まるで災害でもあったかのように、何百万人もがへばりついて、それぞれが自分のくぼみと独房の中で暮らし、お互いについての認識も知識もなく、お互いを気にかけることもなく、他人がどう暮らしているかについて、まったく見当すらついていない――数すら不明の何千人もの人々が、無思慮のままに傷ついているのだ。60年前に偉大なイギリス人コベットは、それをたんこぶと呼んだ。当時それがたんこぶだったなら、いまはなんだ? 腫瘍だ。肥大したシステムの中に、地方部の生命と血と骨の半分を吸い込んでいる象皮病ではないか」(1891年3月)

 ジョン・ゴースト卿もその邪悪を指摘し、治療法を提案している。

「もしこの邪悪を永久に解決したければ、その原因を取り除くことだ。潮流を逆転させて、人々が街に流入してくるのをやめさせなくてはならない。人々を土地に戻すのだ。この問題の解決には、街自身の利益と安全がかかっているのだ」(デイリー・クロニクル、1891年11月6日)

 ディーン・ファラーはこう語る:

「われわれは大都市の地となりつつある。村は停滞しているか、衰退しつつある。都市はすさまじく増大している。そして大都市がますます、われらが人種の肉体的な墓場となりつつあるというのが事実であるなら、家々がこんなに醜悪で、むさくるしく、排水も悪く、放置と汚物にまみれているのも不思議はないではないか」

 人口学会議においてローデス博士は、「イギリス農村部から生じている移住」に注意を呼びかけた。「ランカシャーなどの製造業地域では、人口の 35% が 60 歳以上であるが、農業地域ではそれが 60% を越えている[+1]。掘っ建て小屋の多くはあまりにひどい代物で、家とすら呼べないものだし、人々は肉体的に衰弱しきっていて、まともな体の持ち主ならできるはずの仕事量をこなせない。農業労働者たちを改善するために手をうたなければ、農村部からの脱出は今後も続き、それが将来どんな結果を生むかについては、かれは口に出そうとさえしなかった」(タイムズ、1891年8月15日)

訳註:後年の編集者の調べによると、この引用は原文のままだが、どうも小数点の位置がまちがっているらしい。1939年には、イングランドとウェールズの都市部における 65 歳以上人口比率は 8.77% だったそうな。ロンドン大都市圏では 8.33% で、地方部ではこれが 10.3% だったとのこと。

 マスコミも、リベラル派も急進派も、保守派ですらこの時代の深い病状について、同じ危機感を持って見ている。1892年6月6日のセント・ジェームズ・ガゼットはこう書いている:

「現代の生活における最大の危機に対し、まともな特効薬を提供する最前の方法はなにかという問題は、なみなみならぬ意義を持った問題である」

 1891年10月9日の「スター」紙はこう書く;

「地方部からの移住をどう止めるかというのは、現代の大問題の一つである。労働者たちを土地に戻すことはできるかもしれないが、地方の産業をイングランドの田舎によみがえらせるにはどうしたらいいだろうか」

 数年前に「デイリーニュース」紙も、「われらが村落の生活」と称して同じ問題を扱った記事シリーズを発表していた。

 商業組合の指導者たちも、同じ警告を発している。ベン・ティレット氏曰く:

「手は仕事を求めて腹をすかし、土地は労働を求めて飢えている」

 トム・マン氏の見解はこうだ:

「都市部の労働力過剰は、主に地方部から、土地を耕すのに必要とされた人々が流入してきたために生じている」

 つまりこの問題が重大であることは、だれもが同意している。みんながその解決法をなんとか見つけようとしている。これに対してどんな解決策を提案しても、それについてみんながこれほどまで同意してくれると考えるのは、まちがいなく空想的ではあるのだけれど、これほどまでにきわめて重要とみんなが考えている問題について、出発点に関してはこうした合意があることを確認しておくのはきわめて大事なことだ。この現代における最も火急の問題に対する回答が、われらの時代における最高の思考家や改革者たちの才能をしばりつけてきた、ほかの多くの問題も比較的かんたんに解決するものであるということが示されれば――そしてそれは、本書で議論の余地なく示せると思う――なおさら特筆すべき、希望に満ちたしるしとなるだろう。そう、人々を土地に戻すにはどうしたらいいかという問題――あのわれらが美しき土地、空の天蓋、そこに吹き寄せる大気、それを暖める太陽、それを濡らす雨露――まさしく人類に対する神の愛を体現したもの――こそが、まさにマスターキーなのである。なぜならそれは、ほんのすこししか開いていないときであっても、不摂生や過剰な労働、いたたまれぬ不安、どん底の貧困といった問題に、光を大量に投げかける戸口への鍵と見なせるからだ。そして政府介入の真の限界、さらにはさよう、人間と至高の力との関わりといった問題にさえも。

 一見すると、この問題――人々を土地に戻すにはどうしたらいいか――の解決に向けてとるべき第一歩は、これまで人々の大都市集中へと結びついた無数の原因について慎重に考えることだと思えるだろう。もしそうなら、最初にとても長期にわたる調査が必要になってくるだろう。だが著者にとっても読者にとってもありがたいことに、そのような分析はここでは必要とならない。その理由はとても簡単で、つぎのように表現できる:人々が都市に集まってくるとき、過去にどんな力が働いて、いまどんな力が作用しているにせよ、そうした原因はすべて「魅力」の一言にまとめてしまえるのである。だからしたがって、どんな対処方法であっても、それが人々(少なくともそのかなりの部分)にいまのわれわれの都市が持つより大きな「魅力」を示さなくては、有効に機能するわけがない。古い「魅力」を新しく作られる新しい「魅力」が凌駕しなくてはならないわけだ。それぞれの都市は磁石だと思えばいい。それぞれの個人は針だ。こういうふうに考えると、いまのわれわれの都市よりも大きな力を持つ磁石をつくる方法を見つけなければ、人口を自発的かつ健全に再配分するのには有効ではありえないことがすぐにわかる。

 こうして見てやっても、問題は一見すると解決は不可能とはいわないにしても、とても困難に思えるだろう。みんなついききたくなるはずだ。「いなかを、市井の人々にとって都市よりも魅力あるものにするなんて、できるわけがない――賃金を、少なくとも物質的な快適さの水準を、都市よりいなかのほうが高いものにするなんて。大都市以上とはいわないまでも、それに匹敵するくらいの社会的交流の可能性を確保し、平均的な男女の向上の見込みを都市並に保つなんて!」この問題は、これときわめて似た形式でたえず持ち上がってくる。この問題は一般メディアでも絶えずとりあげられ、ありとあらゆる形式の議論の種となっている。その論調だとまるで、人類、少なくとも労働者は、一方では自らの人間社会に対する愛を押し殺すか――少なくとも、寒村で見つかるもの以上の人間関係は押し殺すか――さもなければもう一方では、いなかのすばらしく純粋なよろこびをほぼ完全にあきらめるか、そのどちらかの選択や代替案しかないし、これからもそれ以外はありえない、とでも言うようだ。まるで労働者がいなかに住みながらも、農業以外の仕事に従事することは、いまもこれからもまったく不可能であり、経済科学の終着点が混雑した不健康な都市だとでも言わんばかりであり、農業と工業の間にはっきりと分割線がひかれているわれわれの産業の現状が、いつまでも続くしかないとでも言わんばかりに、万人が思いこんでしまっている。

  この誤謬は、目の前に出されたもの以外の代替案の可能性を完全に無視するという、よくあるまちがいなのだ。実際には、選択肢はみんながいつも考えているように、二つ――つまり町の生活といなか生活――しかないわけではない。第三の選択肢があり、そこではきわめてエネルギッシュで活発な町の生活の長所と、いなかの美しさやよろこびのすべてが完全な組み合わせとなって確保されるのだ。そしてこの生活を送れるという確実性が、われわれみんなの追い求める効果を生み出す磁石となる――人々は混雑した町を自発的に出て、優しき母なる大地の腹部に戻るのだ。そこは生命とよろこび、富と力の源となるだろう。だから町といなかは、二つの磁石と考えることができる。どちらも人々を引きつけようと努力している――このライバル関係に、両者の性質を兼ね備えた新しい生活形態が参加しようというわけだ。これは「3つの磁石」の図によって示せる。この図では、町といなかの主な長所が、それぞれ対応する欠点とともに描かれているが、「町・いなか」のメリットは、その双方の欠点から逃れているのである。

町、いなか、「町・いなか」磁石
図 1:三つの磁石の図
いなか 町・いなか
自然の締め出し、社会的な機会、群衆の孤立、おもしろい場所、仕事場から遠い、高賃金職、高い家賃や物価、雇用機会、長時間労働、失業者の群、霧や渇水、高価な排水、汚い空気によどんだ空、明るい街路、スラムやジン酒場、豪壮な建築 社会生活なし、自然の美しさ、仕事のない人々、遺棄された土地、無断立ち入り要注意、林・草原・森、長時間労働に低賃金、新鮮な空気と低家賃、排水皆無、水たっぷり、娯楽なし、明るい太陽、公共心皆無、改革が必要、混雑した住居、廃村 自然の美しさ、社会的な機会、簡単にアクセスできる草原や公園、低家賃、高賃金、低い税金、やることいっぱい、低物価、ゆとりの仕事、起業の機会、資金の流入、きれいな空気と水、よい排水、明るい家と庭園、煙もスラムもなし、自由、協力
人々:かれらはどこへ行くだろうか?

 町磁石は、ごらんのとおり、いなか磁石と比べて高賃金、雇用機会、魅力的な生活向上の見こみなどを提供するが、これは高い家賃や物価によってかなりうち消されてしまう。そこでの社会的な機会や娯楽場所はとても魅惑的だが、過酷な労働や職場までの距離、そして「群衆の中の孤独」が、こうした長所の価値を大幅に低下させてしまう。街頭の明るい街路は、特に冬場にはすばらしい魅力だが、日差しがますます閉め出され、そして空気があまりに損なわれているために、立派な公共建築がスズメともどもすぐに煤まみれになってしまうし、立派な彫像も泣いている。豪壮な大建築と、背筋も凍るスラムが現代の都市では相補的な特徴となっているのだ。

 いなか磁石は、あらゆる美と富の源泉として名乗りを上げる。しかし町磁石は、きみは社交がなくてとても退屈で、資本がないからその贈り物もほとんど提供できないじゃないか、とバカにしたように指摘する。いなかには、美しい景色や荘厳な公園、スミレの香る森や新鮮な空気、流れる水の音がある。でも「侵入者は処罰される」というおっかない看板を目にすることも実に多い。地代は、エーカーあたりで計算すれば低いにはちがいないけれど、その低い賃料は、低賃金の自然な結果にすぎず、すばらしい快適さをもたらしてくれるものなどではない。一方で、長時間労働と娯楽の欠如のために、明るい日差しや澄んだ空気は人々の心を喜ばせない。唯一の産業である農業も、しばしば豪雨に苦しめられる。でも、この雲からくる雨というすばらしい収穫物がきちんと貯水されることはほとんどなく、渇水時には飲料水でさえ不十分になってしまうことも多い[*01]。いなかの自然な健全さも、きちんとした排水などの衛生状態が整っていないために、多くが失われており、ほとんど廃村化したところでは、残った少数の人々はしばしば密集して暮らし、まるで都市のスラムとはりあおうとしているかのようだ。

原注:1894年4月25日、チェスターフィールド・ガス・水道法についての下院諮問委員会において、ダービーシャー郡委員会保健医療担当のバーワイズ博士は、質問1873に答えて以下のように証言している:「ブリミングトン公立学校では、せっけんの泡だらけの桶がいくつか見られました。子どもたちが体を洗う水は、全員の分がそれだけだったのです。おなじ水で、交代に体を洗うわけです。もちろんギョウ虫かなにかのようなものをもった子がいれば、すぐに全員に伝染させることになります(中略)女教師の話ですと、子どもたちは汗をかいて遊び場からもどってきたときに、みんなこのきたない水を本当に飲むのが見られたそうです。のどがかわいていても、ほかに飲む水がないからなのです」

 でも、町磁石もいなか磁石も、自然の計画や目的を完全な形で体現したものではない。人間社会と自然の美しさは、いっしょに楽しまれるべきものだ。この二つの磁石を一つにしなくてはならない。男と女が、異なる天分と機能によってお互いを補うほうに、町といなかも補い合うべきだ。町は社会のシンボルだ――助け合いと仲のよい協力、父性、母性、姉妹兄弟愛、人間同士の広いつきあい――広く拡大する共感――科学、芸術、文化、宗教のシンボルなのだ。
 そしていなかとは! いなかは人間に対する神の愛と配慮のシンボルなのだ。われわれであるもの、そしてわれわれの持つものはすべていなかからきている。われわれの肉体もそれで作られている。そして死ねばそこに戻る。それに養われ、服を与えられ、暖められて家屋を与えられている。その腹部にわれわれは休む。その美しさは、芸術や音楽や詩の源だ。その力は、産業のあらゆる車輪を動かす。あらゆる健康、あらゆる富、あらゆる知識の源である。でもそのよろこびと英知の全貌は、いまだに人類に明かされてはいない。そしてこの、社会と自然との不道徳で不自然な分離が続くかぎり、それが明かされることは決してないであろう。町といなかは結ばれなくてはならない。そしてこの喜ばしい結合から、新たな希望、新たな暮らし、新たな文明が生まれるだろう。本書の目的は、町・いなか磁石をつくることで、この方向への第一歩をいかにして踏み出せるかを示すことである。そしてわたしは読者に、これがいますぐここで実現可能なものであり、しかもその原理は倫理的にみても経済的にみても、きわめてしっかりしたものだということを納得してもらいたいと思っている。

 そこでわたしは、「町・いなか」ではあらゆる混雑した都市で楽しまれているのと同等、いやそれ以上の社会的な交流がいかにして楽しめ、しかも自然の美しさが、そこの住民一人一人を囲み、包み込むようになるかを示すことにしよう。高賃金がどうすれば低い地代や物価と共存できるかを示そう。万人にとって、雇用機会がたっぷりあり、向上の明るい見通しも確保できる方法を示そう。資本が引きつけられ、富がつくられる方法を。最高に望ましい衛生状態を確保するやりかたを。万人に美しい家と庭を与える方法を。自由の領域が広がり、しかも同時に幸せな人々によって、協調と協力の最高の結果がもたらされる方法を示そう。

 こうした磁石の建設は、もし機能するようにできれば、当然のこととして同じものがもっとたくさん作られるようになり、ジョン・ゴースト卿がわれわれにつきつけた火急の問題「潮流を逆転させて、人々が街に流入してくるのをやめさせなくてはならない。人々を土地に戻すのだ」に対する回答となるのはまちがいない。

 このような磁石のもっと詳しい説明と、その建設方法を以下の章では述べる。

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第 1 章 「町・いなか」磁石

「わたしは精神の戦いをやめない
剣を手の中でねむらせることもない
イギリスの快適な緑の大地に
エルサレムを築くまで」
――ブレイク

「われわれの持つ家屋での、衛生的かつ矯正的な行動を通じ、さらにはもっと強力に、美しく、限られた形でまとまって、その流れや城壁で囲まれた範囲との比例を保たせるような建設をすることで、はびこるどうしようもない郊外はもうどこにもなくなり、市内では清潔で通行量の多い通りができ、その外には開けた田園が広がり、城壁のまわりを美しい庭園や果樹園のベルトがとりまく。これで都市内のどこからでも、完全に新鮮な空気や草原や遠く地平線の光景の見える場所まで、ほんの数分歩くだけで到達できるようになる」――ジョン・ラスキン『ゴマと百合』


 読者のみなさんには、24 km2(6,000エーカー)を擁する広大な敷地を考えていただきたい。そこは現在は完全な農地で、公開市場では1エーカーあたり 40 ポンド、つまり総額 24 万ポンドで購入したものだ[*02]。購入資金は、担保付き債券の発行で調達されていて、その平均金利は 4% を超えないものとなる。敷地の法的な所有者は、責任ある社会的地位を持ち、高潔さと名誉では非のうちどころのない紳士 4 名だ。この 4 名は敷地を、担保付き債券の担保として信託財産として持ち、さらにはそれを田園都市の人々のために信託財産として持つ[*03]。この田園都市というのは、その後そこに建設される予定の「町・いなか」磁石だ。この計画の重要な特徴の一つは、すべての地代(これは土地の時価に基づく)は信託管理人に支払われ、かれらはそこから(債券の)金利と元本返済用積立金を支払って、残金をその新しい自治体の中央評議会にわたす[*04]。その金を使って委員会は、必要とされる公共施設すべての建設と維持管理を行う――道路、学校、公園その他だ。

原注02:これは1898年に農地に支払われていた平均価格である。そしてこの推定値で、充分以上の土地が買えることはあっても、土地購入費がこれを大幅に上回ることはまずあり得ない。

原注03:本書で説明した資金調達方法は、形態としては別の形をとることもあるだろうが、基本的な原理の点では変わらないはずだ。そして確実なスキームが合意されるまでは、本書の原題である『明日(To-morrow)』に記載したとおりの形で繰り返しておくほうがいいと思う。この本をきっかけにして、田園都市協会が設立されたのだった。

原注04:ここでの「自治体」ということばは、法的に厳密な意味で使っているわけではない。

 この用地買収の目的は、いろいろな言い方ができるけれど、ここでは以下のようなものが主目的だと言えば充分だろう:工業労働者たちのために、もっと購買力の高い賃金をもらえる仕事を見つけてやり、もっと健康な環境と、もっと安定した雇用を見つけてあげることだ。各種の事業精神に富んだ製造業者や共同組合、建築家、エンジニア、建築業者、機械工など、さまざまな職業に従事している人々に対して、これは自分の資本や能力に対して新しく、もっとよい仕事が確保できるようにする。そしてその一方ではいまその敷地にいる農業者や、この先ここに移ってこようとする農業者に対しては、自分の家の近くで産物に対する新しい市場が開けるように考えられている。この用地買収の目的は、一言でいえば、どんな水準の者であってもあらゆる真の労働者たちの、健康と快適さの水準を向上させることだ――そしてこの目標を実現するための手段は、町の生活といなか生活の健全かつ自然で経済的な組み合わせとなることで達成され、これがその自治体の所有する土地の上で実現されるのだ。

 田園都市は、この 24 km2の中心ちかくに建設され、4 km2、つまり全体 24 km2の 1/6 を占める。円形にしてもいいだろう。するとその中心から外周部までは 1,130 m (1,240ヤード)となる。図2は、自治体全体の敷地計画だ。中心に町がある。図 3 は町の一部、または区を描いたものだ。これを見ると、町そのものの説明を追うのに便利だ――ただしこの説明は単に、こんなものだろうという程度のもので、実際にはこれとはかなりちがってくるはずだ。

田園都市と郊外ベルト

 すばらしい大通りが6本――それぞれ幅員 40 m ――が町の中心から外周部まで走り、町を6つの均等な部分に分けている。その中心には、 2.2 ha ほどの丸い空間がとられ、美しくたっぷり水をやった庭園となっている。そしてこの庭園をとりまいて、それぞれゆったりと独立した敷地に、大きめの公共建築――市役所、主要コンサート講堂、劇場、図書館、博物館、画廊に病院――が建っている。

 「水晶宮」に囲まれた広大な空間は、公園になる。 58 ha で、あらゆる人々がすぐにアクセスできるところに、たっぷりとしたリクリエーション用の場所を含んでいる。

 中央公園のまわりをぐるりと(大通りと交差するところをのぞいて)取り巻いているのは、幅の広いガラスのアーケードで、これが「水晶宮」であり、公園のほうに開かれている。この建物は、雨が降ったときに人々のお気に入りの場所となるし、この明るい屋根が手近にあるということで、どんなに天候が怪しげなときにでも、みんな中央公園にくるようになる。この水晶宮では、製造業からの製品が展示販売されて、あれこれ迷って選ぶ楽しみを必要とするような種類のショッピングは、ほとんどがここで行われる。水晶宮の中の空間は、こういう目的に必要な面積よりもずっと大きく、そのかなりの部分はウィンター・ガーデン(温室)として使われる――その全体が、きわめて魅力的な常設展示を形成し、しかも円形なので、町の住人すべての近くにこれが位置することになる――いちばん遠い住民でも、 600 m 以内にいることになる。

田園都市の区と中心部

 外周部にむかって水晶宮を過ぎると、五番街を横切る――この通りは、町のすべての通りと同じように、街路樹が植わっている――これに沿って、水晶宮と対面する形で、実にみごとに立てられた家屋がリング状に建っている。そのそれぞれが、独立した広い敷地に建っている。さらに歩を進めると、家は同心円上になって、いくつかの街(環状の道路を街と呼ぶ)に面しているか、あるいは町の中央を中心とする大通りや通りに面して建っていることがわかる。この散歩に同行してくれている友人に、この小さな町の人口をきいてみよう。町の中だけだと3万人、そして農業地に2千人住んでいて、そして町には建物が5,500棟あって平均の敷地面積が 20フィート x 130フィート(7 m x 43 m ほど)――住宅用の最低敷地面積は 20フィートx100フィート(7 m x 33 mほど)だ、と教えてくれる。家または家屋群が建築的にもデザイン的にもきわめて多様性に富んでいる――一部は共用の庭、一部は共同の台所をもっている――のを見て、壁面線を街路境界にきちんとそろえるか、あるいは足並みをそろえてセットバックすることが家を建てるときに重用視されるのだと教えられる。これについては自治体の政府が力を持っている。そして衛生上の配慮はきびしく適用されるものの、それ以外では個人の趣味や嗜好が最大限に奨励されるのだ、と教わる。

 さらに町の外周部にむかって歩くと、グランドアベニューに出る。この通りは、その名に完全にふさわしいだけのものとなっている。幅員は 140 m で(ちなみにロンドンのポートランド・プレイスは幅員たったの 33 m である)、全長約 5 km のグリーンベルトを形成し、町の中央公園の外側部分を二分する。これは実は、50 ha の公園がもう一個あるのと同じだ――どんな遠くの住人からも 240 m 以内にある公園だ。このすばらしい街路の中には、それぞれ 2 ha の敷地が6つ置かれ、そこに公立学校とそれを取り巻く遊び場や庭園が置かれる。その他の敷地は教会用地で、どの宗教の教会かはそこの住民の信仰によるし、教会の建設費と維持費は、信者やその友人たちの資金がまかなう。見ると、グランドアベニューに面した家屋は(少なくとも一つの区では――それが図3に描かれた区だ)――一般的な同心円配置から逸脱している。グランドアベニューへ面した壁面長を確保するために、家屋が三日月状に配置されている――これで見た目には、すでに壮大なグランドアベニューの幅員をさらに拡大する結果となっている。

 町の外周リングには、工場や倉庫、乳製品店、市場、石炭置き場、材木置き場などがあって、これがすべて、町全体の最外周を囲む環状鉄道に面している。環状鉄道は支線を通じて、全敷地を通過する鉄道本線と結ばれている。この配置によって、物資が倉庫や工房から貨物車に直接積み込めて、鉄道で遠くの市場に送り出せるし、あるいは貨物車から直接、倉庫や工房に運び込める。これで梱包や輸送に関わる手間を大きく省くことができて、輸送中の破損からくるロスを最小化できるだけでなく、町中の道路の交通量を減らすことで、道路の維持管理費を目に見えて大いに減らすことができる。煙害は、田園都市では楽々と一定範囲内におさえられている。なぜなら機械類はすべて電気で動いているからで、このおかげで照明その他用の電気料金は、大幅に下げられている。

 町の廃棄物は敷地の中の農業部分で活用される。農業地は様々な個人によって、大農場、小農場、小農地、放牧場などとして保有されている。こうしたいろいろな手法の農業が自然に競合する。そしてそれは、市に対して納める地代をだれが最大化するかということで優劣が決まってくるため、農業のいちばんいいシステムを引き出すことになりやすい。というより、可能性としては、様々な目的に応じて決まってくるいちばんいいシステム群が実現される、というほうがありそうだ。つまりすぐに想像がつくように、小麦はとても大きな畑で作った方が有利なので、資本主義的な農民たちが連合して生産活動をするか、あるいは共同組合のような運営体が栽培することになるだろう。一方、野菜や果樹、花卉は、もっと細やかで個別のケアが必要で、芸術的かつ創造的な才能が必要となるから、これは個人が行うか、あるいは特定の肥料や栽培方法、または人工・自然の環境の有効性について信念を同じくした個人の小集団が行うのがいちばんいいかもしれない。

 この計画、というかもし読者がお望みであれば、この計画の不在と言ってもいいのだが、これは停滞や無駄の危険を回避しており、個人の主体性を推奨して最大限の協力を許す一方で、この形態のおかげで増えた地代収入は公共、つまりは市のものとなり、その相当部分は永続的な改良に費やされることとなる。

 市域の人々は、さまざまな業種や天職や職業に従事しているわけで、各区にある店舗や売り場は農業従事者たちにとって、いちばん自然な市場を提供する。そして町の人が農家の産物を需要する限り、それは鉄道輸送費をまったくかけないですむ。でも農民その他は、別に町だけが唯一の市場として限定されているわけではない。自分の好きなところに産物を卸す全権を持っている。ここでも、この実験のあらゆる面と同じく、権利の範囲はせばまることなく、選択の幅は拡大しているのだ。

 この自由の原則は、町の中に拠点をかまえた製造業者などにも適用される。みんな、自分なりのやりかたで物事を管理運営する。もちろん、土地の一般法にはしたがうことになるし、労働者には十分な空間を与えて、適切な衛生状態を保つことは義務づけられる。水道、照明、電話通信などの分野についてさえ――もし効率的かつ正直であるなら、これを提供するいちばんいい自然な主体は自治体になるだろう――厳格で絶対的な独占が押しつけられることはない。もしどこかの民間企業は個人集団が、町全体についてであれその一部についてであれ、供給を任されればもっといい条件でこれらを提供できることを示したなら、それは認められる。どんなしっかりした行動の体系よりも、人工的な支持が必要なのはしっかりした考え方の体系だ。自治体や企業による行動・活動の範囲は、おそらくは大きく拡大するよう運命づけられているはずだ。でももしそうであるなら、それは人々がそういう行動について信頼を抱いているからであって、そしてその信頼は、自由の領域が広く拡大されることによって、いちばんよく示される。

 この 24 km2 の圏域の中には、さまざまな慈善施設やフィランソロフィー施設が点在している。これらは自治体がコントロールするものではなく、開かれた健康的な地区にこうした施設をつくるよう自治体が招いた、公共心に富む人々によって支持管理されている。土地はかれらに、名目上の賃料だけで貸し付けられている。こうした施設の購買力は、コミュニティ全体に大きく寄与するから、そういう太っ腹なところを見せても充分にもとがとれるということが、行政当局にもわかるからだ。それに、この町に移住してくる人々は、国民の中でもいちばん活力と才覚に富んだ者たちとなる。だから、かれらよりもっとめぐまれない同胞たちが、もっと広く全人類のためにデザインされた実験のメリットを享受できるようになるというのは、まったくもって公正かつ正しいことなのである。

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第 2 章 田園都市の歳入と、その獲得方法――農業用地

「わたしの目的は、科学知識に導かれ、独自の自由意志の行使によって実に整い、維持管理されたコミュニティの理論的な概略を提出することだ。それによりこのコミュニティは、高い衛生状態が本当に実現はされないまでもそれに近づくことができ、一般の道徳心が最低水準であっても、それと個人の最大限の長寿が共存できるようになるのだ。」――BWリチャードソン博士『ハイジーア:あるいは健康の都市』(1876)

「いたるところの排水設備が、その二重の機能をもって、それが運び去るものを再生させることが実現されるようになれば、これが新しい社会経済データと組合わさって、大地の産物は10倍増にもなり、そして貧困による悲惨の問題はすばらしく減るだろう。そこに寄生虫症の抑制を加えれば、それも実現されることだろう。」――ビクトル・ユゴー『レ・ミゼラブル』(1862)


 田園都市と他の自治体との本質的なちがいの中でも、いちばん大きなちがいの一つは、その歳入の獲得方法である。田園都市の歳入のすべては、地代からくる。そして本書の目的の一つは、この圏域内のさまざまなテナントから期待される、きわめて低額な地代収入であっても、田園都市の金庫に入れば、以下のような目的のために十分であることを示すことにある。その目的とは:

 町といなかとのちがいで、いちばん目につくものは土地の利用に課される地代の差だろう。つまりロンドンの一部では地代がエーカーあたり3万ポンドになるのに、農用地ではエーカー4ポンドでもきわめて高い地代だ。この賃貸料のすさまじい差はもちろん、前者には存在して後者には存在しない、大量の人口によってほとんど生じている。そしてこの差額はある特定の個人の行動に帰せられるようなものではないから、しばしば「不労増分」というふうに言及される。だがもっと正しい表現としては、「集合的に稼いだ増分」ということになるだろう。

 多数の人口が存在することで土地に追加の価値がたくさん与えられるなら、どこかの地域に十分なだけの人口が移住すれば、その移住先の地価は、それに対応しただけの増加がともなうのは確実だ。そして多少の先見性と事前の調整があれば、その価値の増分は、移住してきた人々の所有物にできるだろう。

 そうした先見性と事前調整は、これまで有効な形で実行されたことはないが、田園都市の場合には周到に適用される。ここでは土地は(すでに見たように)信託財産管理人に帰属し、かれらがそれを(債券の償還が終わったら)全コミュニティにかわって信託財産として持つ。だからだんだん作られる価値の増分は、自治体の財産となる。結果として、地代はあがるかもしれないし、そのあがりかたもかなりのものかもしれないけれど、その上昇分はだれか個人の所有物にはならずに、地代を下げるのにあてられる。この取り決めが、田園都市にその磁力を与えるのだ、ということをこの先見ていく。

 田園都市の敷地は、購入時点ではエーカーあたり 40 ポンドと想定した。つまり総額24万ポンドだ。この購入金額は、30 年の分割払いに相当すると考えよう。これをもとに、もとの借り手が支払っていた年間地代は 8,000 ポンド になる。したがって、購入時点でこの敷地に住民が 1,000人いたら、男も女も子どもも、一人あたり年間 8 ポンド をこの地代に対して貢献していることになる。しかし田園都市の人口は、農業地も含めると、完成すれば 32,000人になる。そして敷地全体は、利息を含めて年間 9,600 ポンドの費用がかかることになる[+02]。したがって、この実験がはじまる前は 1,000人 がその稼ぎの合計の中から 8,000 ポンドまたは一人 8 ポンドも支払っていたのが、町が完成すれば 32,000 人がその稼ぎの合計から 9,600 ポンド貢献すればいい。つまり一人頭で平均年間6シリング (0.3ポンド)。

訳注:元本が30年払いで年額 8,000ポンド、利息は元金総額 24 万ポンドに対して年利 4% なので、24,000 x 0.04=1,600ポンド、合計して 9,600 ポンド、という計算だ。
 あと貨幣単位についてだけれど、1シリングは1/20ポンド。だから6シリングは0.3ポンド。当のイギリスでも面倒くさくてもう使わなくなった単位だし、本書の本質とはなにも関係ないし混乱のもとなので、今後は全部ポンドに換算して統一する。

 厳密にいえば、田園都市の住民が支払わされる地代は、この年間 0.3ポンド ですべてのはずだ。というのも、この田園都市が実際に外に対して支払う地代がそれだけだからだ。だからそれ以上何か支払ったら、それは地方税的なものへの支払いとなる。

 仮にここで、各人が地代の0.3ポンドを支払うだけでなく、追加で年間1.7ポンド、つまり総額で年間2ポンドを支払うとしよう。この場合、二つのことがわかる。まず、各人が地代+地方税として支払うものは、この敷地の購入前の住人が地代だけで支払っていたものの1/4でしかない。さらに、この自治体運営委員会は、担保債券の利息を払ったあとで年に54,400ポンドが手元に残る。すぐに示すが、元金返済用積立金(4,400ポンド)を引いても、ふつうは地方税でまかなわれているコストや費用、支出すべてをまかなえる。

 イングランドとウェールズで、男女子どもが地方税で支払わされている金額の平均は、年2ポンドくらいだ。そして地代で支払われている金額の平均は、かなり少なく見積もっても年2.5ポンドになる。だから地代と地方税を合計した年間支払い額は、4.5ポンドだ。したがって田園都市の住民は、地代と地方税を完全に精算するのに、一人あたり年間2ポンドなら喜んで支払うだろうと見てまちがいないだろう。だがこの議論をもっと明確で強力にするために、田園都市の住民が、地方税と地代あわせて年2ポンドなら喜んで支払うという想定を、別の方法で確認してみよう。

 このために、まず町の敷地は別に扱うことにして、農用地だけを考えることにしよう。明らかに、各農民が支払える地代は、町が作られる以前よりもずっと高くなるだろう。農民はみんな、自分の住まいのすぐ近くに市場を持っているわけだ。養うべき町の市民は3万人いる。もちろんこれらの人々は、世界中どこからでも自分の食料を入手してまったくかまわないわけだし、多くの産物はまちがいなく外国から調達されるだろう。現地の農民たちが、紅茶やスパイスや、南国の果物や砂糖を供給してくれるとはまず期待できないし(発電コストの低い電気を使った電灯を温室と組み合わせれば、こうした産物の一部は生産できるかもしれない)、小麦や小麦粉の生産でも、アメリカやロシアとの競合はこれまでと同じくらい熾烈だろう。でも、この競合はいままでほど絶望的ではないだろう。これまで絶望していたイギリスの小麦生産者たちは、一筋の――いやきわめて強力な――希望の光によって大いに喜ぶはずだ。アメリカ人たちは、自分の港までの鉄道輸送費、大西洋横断の海運輸送費、さらにイギリス消費者までの鉄道運賃を支払わなければならないのに、田園都市の農民たちは、まさに目の前に大消費地を持っていて、さらにその市場は、その農民が地代に貢献することで拡大するのだ(クロポトキン『農場、工場、工房』(ロンドン、1889)およびJ. W. Petaval『The Coming Revolution (きたるべき革命)』を参照)。

 あるいは、野菜や果物を考えてほしい。都市近郊の農家以外は、もう野菜や果物は作らなくなっている。なぜか? 市場がもっぱらむずかしくて不確実だからということと、輸送費や中間マージンが高いせいだ。下院ファーカーソン博士のことばを引用すると、農民たちは「こうした産物を売りさばこうとすると、幾重もの中継ぎ業者や投機家のクモの巣の中で絶望的にもがいている自分に気がついてしまい、絶望のあまりそんなものを売ろうという努力なんかやめてしまおうという気になりかかり、公開市場での価格がそのままきちんと適用できるような産物にだけ頼ろうとするのだ」。また牛乳に関して、なかなかおもしろい計算ができる。仮に町の人間がみんな、一日たった 1/3 パイントの牛乳しか消費しなかったとしよう。それでも人口3万人なら、一日 1,250ガロン を消費する。鉄道の輸送費を1ガロンあたり1ペニー(1/240ポンド) とすれば、年間でミルクという一品目の鉄道輸送運賃だけでも 1,900ポンド 以上の節約になる。それに消費者と生産者をこれほど接近させることによる一般的な節約分を計算するためには、これを何倍もしなくてはなるまい。言い換えると、町といなかの組み合わせは健康的なだけでなく、経済的でもあるのだ――この点についてはこの先一歩進むごとに、一層はっきりしてくるだろう。

 しかし田園都市の農業テナントたちが喜んで支払う地代が増大するのには、別の理由もある。町の廃棄物は、すぐに土に戻されて、その肥沃度を高めることができるのだ。しかもこれにも鉄道輸送などの高い中間段階はいらない。下水処理の問題は、もちろん対応のむずかしい問題だ。でももともとのむずかしさが、いまは既存の人工的で不完全な条件のために、さらに増大する結果になっている。だからベンジャミン・ベーカー卿は、ロンドン郡評議会に対するアレクサンダー・ビニー氏(現在は卿)との共同報告でこう述べている:「ロンドン大都市圏の全下水道システムについての大問題と、テームズ川の状態について、現実的な問題として考えてみると(中略)まっさきに認識しなくてはならないのは、主下水システムはもはや敷設されてしまっていて変更できないものであり、大通りの幹線が、われわれの望むようになっていようといまいと、いまのままに受け入れなくてはならないのと同じように、下水管路も受け入れなくてはならない、ということだ」。しかしながら田園都市では、エンジニアさえ優秀なら、大して苦労はしなくてすむだろう。まさに白紙の状態から図面を引けるわけで、敷地のすべてが自治体の所有である以上、かれのじゃまをするものはなにもないし、農業地の生産性を大いに高められるのはまちがいない。

 また小農地の数が大幅に増える。特に、図2に示したような立地のいい小農地が増えるため、これも地代として提示される総額を上げることになる。

 田園都市の農民が、自分の農場に対して喜んで支払う地代、あるいは小農地の地代として小作人が喜んで支払う地代が増大すべき理由は、ほかにもある。敷地の農業部分の生産性は、巧妙な下水処理方式によって高められ、さらにはなかなか新しく広大な市場によっても高められ、またもっと遠くの市場に運ぶ場合にも輸送がきわめて便利となっているが、それだけでなく、その土地の占有条件は、土地の最大限の活用を奨励するものになっているのだ。公正な占有条件である。圏域の農地部分は正当な地代で貸し出され、借り主は、別の候補者が提示する地代の 10% 引くらいの賃料を支払いつづける限り、ずっとそこで耕作をつづけることが認められる。割り引くのは、既存のテナントを有利にするためだ――また、テナントが交代する場合には、入ってくるテナントは出ていくテナントに対し、まだ減価償却のすんでいない改良や設備更新の分については支払いをしなくてはならない。この方式を使えば、テナントが町の福祉全体の向上によってもたらされる地価の自然増大について、不当な分け前を確保することは不可能となる。そしてその一方で、土地を占有しているテナントすべてのあるべき姿として、新参の人間に対しては優先権が与えられるし、過去の労働の成果で、まだ収穫されていないけれど土地に価値を足しているものを失うおそれもないのが確信できる。こうした占有条件は、それ自体でテナントの活動とやる気を向上させ、土地の生産性をあげ、そしてそのテナントが喜んで支払うはずの地代も、かなり増大するということは、まずだれにも疑い得ないことだろう。

 地代の提示額が高まるだろうということは、田園都市のテナントが支払う地代の性格をちょっと考えてみれば、なおさら自明のこととなる。テナントの支払う地代の一部は、圏域の購入費用を調達するための担保債券の利息に向けられ、一部はその債券の元本償還にあてられる。だから、その債券を買った市民の分をのぞけば、地代のその分はすべてコミュニティの外に出ていってしまう。でも、支払われた額の残りすべては、地元で使われる。そして農民は、そのお金の管理運用については、ほかの大人たちにまったく等しいだけの権利を持っている。だから田園都市においては「地代」ということばは新しい意味をもってくる。話を明確にするために、これからはあいまいさのない用語を使う必要がある。担保債券の利息に相当する部分は、これからは「地主地代」と呼ぶ。購入金額の償還にあたる部分は「積立金」と呼ぶ。公共目的に使われる部分は「税」と呼ぶ。そしてその総額を「税・地代」と呼ぶことにする。

 いままでの検討から、農民が田園都市の公庫に喜んで払い込む「税・地代」は、個人の地主に対して支払う地代よりもかなり高いものになることは、まちがいなくはっきりしているだろう。この地主は、農民が自分の土地の価値を上げるにつれて地代を上げる一方で、地方税の負担はすべてその農民に押しつけてしまうのである。一言で、ここで提案した計画は、下水処理システムを含んでいる。ほかのところでは、作物が育つにつれて土地の自然な肥沃さが枯渇するので、非常に高価な糞尿をまいてそれを補わなくてはならない。これがあまりに高価なので、農民は時に自分の必需品すら切りつめなくてはならない。しかしこの提案では、作物が土地から奪う肥沃さを、下水処理システムが別の形で土地に返すことになる。さらに農民が苦労して稼いだお金は、これまでは地主に支払われたきり消えてしまっていたのに、ここでは疲れ切った支払い主に戻ってくるのだ。もちろん支払ったお金の形では戻ってこないけれど、道路や学校、市場などさまざまな役に立つ形で。これは農民たちを、間接的ではあれ、きわめて物質的な形で支援するものだ。それに、いまはその地代や税金はあまりにきびしい負担であるために、それが本質的に必要なものだということをかれらもなかなか認識できなくなっていて、その一部に対して疑念と嫌悪を抱くようにさえなっているのだ。もし農場と農民が、物質的にも道徳的にもきわめて健全で自然な条件下におかれたら、熱意あふれる土壌も希望に満ちた農民も、新しい環境に等しく応えてくれるということを、だれが疑い得るだろうか。土地はそれが生み出す葉の一枚ごとに肥沃になり、農民は支払う税・地代の一銭ごとに豊かになっていくはずではないか。

 ここまできてわれわれは、農民や小作農、農地使用者が喜んで支払う税・地代は、これまでかれらが支払ってきた地代よりかなり高くなるだろうということがよくわかる。その理由は以下の通りだ:

  1. 新鮮で利益率の高い農作物を求める、新都市住民たちが存在していて、かれらに対しては鉄道運賃が相当額節約できるから。
  2. 土壌にその自然要素がしかるべく戻されるから。
  3. 土地占有の条件が公正で利益が高く、自然だから。
  4. いま支払われている地代というのは税・地代であるのに対し、これまで支払われていた地代の場合は、テナントはその他に税金の支払いが必要だったから。

 しかしこの「税・地代」が、これまでその圏域にいたテナントたちの支払っていた、地代だけの金額に比べてかなりの増加となるのは確実だが、この「税・地代」がいくらになるのかは、まだまだ憶測の域を出ない。したがってわれわれとしては、たぶん提示されるであろう「税・地代」を大幅に過小推定しておけば、堅実に安全側に見積もったことになるだろう。では、これまでの概略にもとづいて、田園都市の農業人口が、これまで地代だけで支払ってきた金額より 50% 多い税と地代を支払う用意があるものと仮定すると、以下のような結果が得られる:

表 1:農業地からの推定歳入総額
5,000 エーカーのテナントの旧支払地代推定額 6,500ポンド
地方税と積立金で 50% 増し 3,250ポンド
農業地からの「税・地代」総額 9,750ポンド

 次の章では、きわめて正当な計算に基づいて市街地から期待される金額を推定してみよう。そして、町の自治体としてのニーズに対して、税・地代の総額が充分かどうかの検討にすすもう。

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第 3 章 田園都市の歳入――市街地

「ロンドンの貧困層の住居に対してどんな改革がなされても、ロンドン全市がその人口すべてに対し、新鮮な空気を供給できないし、健全なレクリエーションに求められる空地を十分に供給できないのは、相変わらずの真実である。ロンドンの過密への対処方法がまだ求められている。(中略)ロンドンの人口階層の中には、いなかに移住させたほうが長期的には経済的にメリットがあるものがかなり存在している。それは移住した者と、残った者の双方にメリットがあるだろう。(中略)ロンドンの衣服製造業で雇われている 15万人 ほどの労働者のうち、その大多数はきわめて低賃金で、あらゆる経済的な理由から見て、地代の高いところで行われるべきではないような作業をしている」――アルフレッド・マーシャル教授「ロンドン貧困層の住居」Contemporary Review所収, 1884

 前章では、圏域の農業地から期待できる歳入総額を 9,750ポンド と見積もったので、こんどは市街地を見てみよう(ここでは明らかに、農地を市街化することで地価が大幅に上がることになる)。そして、またもや過大な推計をしないよう十分にゆとりを持った想定をするように注意しつつ、市街地部分のテナントから自主的に提供される「税・地代」の額を概算してみよう。

 市街地部分の敷地は 1,000エーカー あって、それが4万ポンドの値段で、その利息が 4% で年 1,600ポンド になる、ということは頭に入れておいてほしい。この総額 1,600ポンド は、町の住民が全員で支払うように要求される、地主地代だ。そしてそれ以上の追加の「税・地代」はすべて、「積立金」として購入費用の償却にあてられるか、あるいは道路や学校や水道の建設維持など、自治体の用途のために適用される「地方税」になる。したがってこの「地主地代」が一人頭でどれくらいになるか、そして市民の支払いによってコミュニティがどのくらいの金額を確保できるかを見てみると、おもしろいだろう。さて、年間の利息または「地主地代」の 1,600ポンド を 30,000 (町の予想人口)で割ると、男、女、子どもそれぞれの一人あたりの支払い額は、 0.06ポンド(訳注:原文では1シリング1ペンス。ほらごらん、どのくらいだか見当もつかないだろう)よりもいささか少ないくらい。徴収される「地主地代」はたったこれだけだ。これ以上徴収される「税・地代」はすべて積立金や地元の用途に使われる。

 さて、この運のいい位置にあるコミュニティが、こんな少額でいったいなにを獲得したのかを見てやろう。一人頭年額 0.06ポンド で、まずは家屋のための十分な敷地が手に入る。これはまえに見たように、平均で 20フィートx130フィート ( 7 m x 43 m ほど)で、敷地一筆に平均で 5.5人 が暮らしている。道路用地もたくさんあるし、道路の一部は壮大きわまる幅員で、実にゆったり広々としていて、日光や空気が自由に出入りして、さらにそこに木々や茂みや草が植わり、町になかばいなかのような様相をもたらしてくれる。また市役所、公共図書館、美術館や画廊、劇場、コンサートホール、病院、学校、教会、水泳浴場、公共市場などにも十分な用地がある。さらには 70ha (142エーカー)の中央公園、さらに幅員 140m で全長 5km 弱のすばらしいアベニューが、広々とした大通りと交差したり、学校や教会があるところをのぞけば途切れることなく続く。そうした学校や教会も、敷地に支払う金がこんなに少額だからといって、その美しさはまったく見劣りしないものになるだろう。また町をぐるりと取り巻く、全長 7.2km の鉄道用地も確保できる。倉庫や向上や市場のために 40ha (82エーカー)、さらにはショッピング専用で温室も兼ねる水晶宮のためのすばらしい敷地もある。

 したがってすべての建物敷地が賃貸される賃貸契約は、各テナントがその土地にかかる地方税や国税、割付金などをすべて支払わなくてはならないという、通常の条項を含んでいない。逆に、地主は受け取った金額を、まずは担保債券の利払いにあてて、次に債券の償還にあて、第三に残金のすべてを公有基金に入れて公共目的に供する、という地主に対する条項が入っている。その公共目的というのは、その自治体以外の市などからかかる税金支払いなども含む。

 こんどは、この市街地部分について予想される税・地代の額を推定してみよう。

 まずは住宅建設用の敷地から考えよう。そのすべてはすばらしい立地だが、特にグランドアベニュー(幅員 140m )と壮大な大通り(幅員 30m )に面したものが、たぶん一番高い賃料になるだろう。ここでは平均値しか扱わないけれど、住宅用地で道路に面した 30cm あたり 0.3ポンド という税・地代というのがきわめて低額だ、というのはだれでも認めてくれると思う。すると道路の前面線 6.7m の建物の税・賃料は、平均で年 6ポンド となり、そしてこれをもとにすると、建物敷地は全部で 5,500 あるから、年間グロスの歳入は 33,000ポンド となる。

 工場や倉庫、市場などの税・地代は、道路前面長ではうまく推定できないかもしれないけれど、平均的な事業者なら、雇い人一人あたり2ポンドなら喜んで払うと考えておけば無難かもしれない。もちろん、税・地代を人頭税にしろと主張しているのではない。金額はまえに述べたとおり、テナント同士の競争によって決めるべきだ。しかしながら、こうして税・地代を推定するというのは、製造業者などの事業者、協同組合、あるいは独立事業者たちが、田園都市にくることで自分のいまの所在地に比べて地代やコストが安上がりになるかどうかを判断するための、簡便な手段になるかもしれない。しかし、ここで問題にしているのは平均なんだということは、はっきりと念頭においてほしい。だからこの数字が大雇用主にはとんでもなく高いように見える一方で、小店主にはとんでもなく安く見えてしまうこともある。

 さて、人口3万人の町では、 16~65歳 の人口は約2万人になる。そしてそのうち 10,625人 が工場や商店や倉庫、市場など、自治体から賃貸される何らかの宅地以外の敷地利用を伴う仕事で雇われるとすると、ここからの歳入は 21,250ポンド になる。

 したがって全圏域からの歳入は次の通りだ:

表 2:田園都市の歳入一覧
農用地からの税・地代(農業歳入の説明参照) 9,750ポンド
一筆 6ポンド として 5,500 筆からの税・地代 33,000ポンド
事業地からの税・地代、 10,625人 で 2ポンド/人 21,250ポンド
合計64,000ポンド

 あるいは、税と地代で一人頭2ポンドほどだ。

 この金額の使途は以下のとおり:

表 3:田園都市歳入の使途
地主地代、つまり土地代 240,000ポンド の利息 4% 9,600ポンド
元金返済用積立金(30年) 4,400ポンド
その他、地方税から支払われる各種の使途 50,000ポンド
合計64,000ポンド

 ではこんどは、 50,000ポンド で田園都市の自治体としてのニーズに十分かを検討することが重要となる。

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第 4 章 田園都市の歳入――歳出概観


 前章の結論部分で出てきた質問――つまり田園都市で使用可能な推定純収入(年間5万ポンド)が自治体としてのニーズを満たすのに充分かどうか――にとりかかるまえに、こうした活動の開始に必要な資金(訳注:つまり初期投資)を調達する方法について、ごく手短に述べよう。そのお金は「B」担保債権の発行で借り入れる(第 1 章の注を見よ)。そしてこの返済は、「税・地代」から差し引いて行う。ただしこれはもちろん、土地の購入費調達を行った「A」担保債権の金利と積立金をまず払ってから、という条件付きだが(訳注:要するに、劣後債を発行するわけだ)。これはいうまでもないことかもしれないが、土地購入の場合には、その圏域の所有権を獲得したり、あるいはその土地の上で活動を開始したりするには、購入金額の全額、あるいはそこまでいかなくても、そのかなりの部分をあらかじめ調達することが必要になる。でもその土地の上で行う公共工事となると、話はまるでちがって、最終的に必要な金額がすべてそろうまで、工事開始を遅らせるなどということは、必要もないし、また望ましいことでもない。そもそもの発端から、公共工事すべてをまかなうのに必要な、すさまじい金額を調達しなくてはならない、などといううんざりするような条件のもとで作られた町など、一つとしてないだろう。そしてこれからだんだん見えてくるように、田園都市のつくられる条件というのは独特ではあるけれど、その初期費用という点でまで例外的な存在となるべき必要はまったくない。それどころか、町という事業体をすさまじい資金で幾重にも塗り重ねるようなことが、まったく必要でなくなり、つまりは不要になるという、田園都市のきわめて例外的な理由もますますはっきりしてくるだろう。とはいってももちろん、まともな経済がきちんと動けるだけの十分な金額は必要ではある。

 これと関連して、町の建設の場合に必要とされる資金量と、たとえば河口に大きな鉄橋をかける場合の資金量とを、きちんと区別しておいたほうがいいだろう。橋の場合には、必要金額を全額事前に調達しておくのがきわめて得策となる。これは、橋は最後のリベット一本が打ち込まれるまで橋とは言えないという単純な理由からくる。さらに橋はその両側で、鉄道や道路と接続されていなければ、収入を生み出す力はまったくない。したがって、その橋が完全に完成するという前提がなければ、そこに投下される資本が回収できるという見込みはほとんどないことになる。だから、投資してくれと言われた側としては、「それが完成するだけの資金を調達できると証明するまでは、そんな事業には投資しないね」と言うのも当然のことだ。

 しかしながら、田園都市の敷地開発のために調達しようとしている資金は、すぐに見返りが生じる。それは道路や学校などに費やされる。こうした公共事業は、テナントに貸し出された敷地の数に応じて実施されるし、そのテナントは借りるときに、一定の期日から上物の建設を始める。したがって投下されたお金は、すぐに税・地代の形でリターンを生じるようになる。それは実際には、大幅に改善された地代を反映したものだ。「B」担保債券に資金を出した者には、まさに第一級の保証がついたも同然であり、もっと低い金利で追加資金を得ることもできるだろう。繰り返すが、各区、または市の 1/6 ごと(図3を参照)が、ある意味で完結した町になっていることが、プロジェクトの重要な一部である。したがって、学校の建物は、初期の段階には単に学校としてだけではなく、宗教的な礼拝場として使われたり、コンサートや図書館や、さまざまな集会場としても使われることもできるだろう。そうすれば、高価な自治体やその他の建物をすべて敷設するのは、後々まで先送りにできるだろう。また事業も、次の区に移る前に、前の区では実質的に完了しているべきだ。そしてそれぞれの区の運営は、順序正しく順番に実施されるべきだろう。そうすれば、市街地になる予定の部分でも、まだ工事が進行していなければ、小農地にしたり、放牧地にしたり、れんが置き場にしたりすることで収入源にできる。

 では、目の前の問題に取りかかるとしよう。田園都市を構築するための原理は、その自治体としての歳出に対して何らかの有効性を持っているだろうか。いいかえると、歳入が一定の場合に、通常の条件下よりも大きな結果を生み出すだろうか。こういう疑問への答えは、イエスだ。一ポンド残らず、お金はほかのところよりも有効に使われて、数字で正確に表現はできなくても明らかな経済性をもち、その総額はきわめて大きな額になるのは明らかとなる。

 まず認識される大きな経済性は、通常はほとんどが自治体にとっての支出項目となる「地主地代」の費目が、田園都市の場合にはほとんどまったく生じないということだ。あらゆるまともに秩序だった町は、庁舎や学校、水泳浴場、図書館、公園などを必要とする。そしてこれらを含む事業体としての施設が占有する敷地は、ふつうは購入される。こういう場合には、こうした敷地を購入する費用は、地方税の一部を財源として借り入れられる。したがって、地方自治体が徴収する地方税の通常の使途として、これはかなりの部分を占めることになる。これは生産作業に向けられるのではなく、われわれが「地主地代」と呼ぶことにしたものとなる。つまり、購入を行うための資金の金利か、あるいはそのようにして確保した購入費用の元金返済用の積み立て金、つまりは資本家された地主地代だ。

 さて、田園都市では、こうした費用は農用地の道路用地を例外としては、すべて手配ずみとなっている。つまり公共公園や学校などの敷地は、地方税の支払い者にとってはコストゼロとなる。というかもっと厳密には、こうした敷地はエーカーあたり 40ポンド で購入してあって、それはこれまで見てきたように、住民の各人が地主地代として支払うことになっている一人あたり 0.06ポンド の年間支払額でカバーされている。そして町の歳入 50,000ポンド は、全敷地購入費の金利と積立金を差し引いた後の、純収入なのだ。したがって 50,000ポンド が歳入として十分かを知るためには、自治体用地の購入費をこの金額から差し引く必要はいっさいないのだ、ということは忘れてはならない。

  また田園都市と、たとえばロンドンのような古い都市とを比べてみれば、大きな経済性が達成できる費目がもう一つ見つかる。ロンドンはもっと自治体精神をもっと完全に発揮しようと思えば、学校を作ったり、スラムを取り壊したり、図書館や水泳浴場を建てたりすることになる。このためには、まず敷地の占有権(訳注:freehold。freeholdというのは、所有権概念がちょっと日本と英米ではちがうのでめんどうなんだけれど、よけいなひもや制限がついていなくてなんでもしていい権利とでも考えておいて)を獲得するだけでなく、その敷地にそれまで建っていた建物も買い取らなくてはならない。しかもそれを買い取るのは、ひたすらそれを取り壊して敷地を更地にするためだけなのだ。しかも営業中断の補償も必要になることが多いし、さらに紛争解決のための法廷費用も莫大だ。これと関連して、ロンドン学校委員会(London School Board)が創設以来、学校用の敷地取得のためにかけてきた総額(つまり従前建物の購入、営業中断補償、法定費用などすべてを含んだ費用)はすでに 3,516,072ポンド というすさまじい金額に達し(原注:ロンドン学校委員会「報告」1897年5月6日、p.1,480を見よ)、さらに委員会の学校建設用地(広さ合計 370エーカー )のコストは平均で 9,500ポンド/エーカー に達している(訳注: 351.6万ポンド / 370エーカー という計算)ことは述べておこう。

原注:「全国の公立小学校に可能な限り、半エーカーかそこらの土地を追加で付加しようという昔からの提案が、一度も実行されていないのは大いに残念なことである。学校農園は若者の園芸に対する洞察を養うことになる。これは後の人生でかれらが快適かつ高収益だと知るようになるだろう。食物の生理学上と相対的な価値は、学校のカリキュラムにおいて、若者たちが何年も無駄に時間を費やすほかの科目に比べて、ずっと有益なものであるといえる。そして学校提案は、実地授業として非常に価値の高いものとなるだろう」エコー、1890年11月。

 この値段だと、田園都市の学校用地 24エーカー は 228,000ポンド になるから、田園都市の学校用地の節約分だけで、モデル都市用の敷地がもう一つ丸ごと買えてしまう。「しかし田園都市の学校用地はかなり豪勢に広くて、ロンドンでは考えられないほどのものだし、田園都市のような小さな町と、強大な帝国の裕福な首都ロンドンとを比べるのはそもそも不公平だ」という声があがるだろう。

  わたしはこう答える。「確かにロンドンの地価では、このような敷地は豪勢すぎるどころか、不可能となってしまう―― 4,000万ポンド もかかってしまう――が、まさにこのことが、現在のシステムのきわめて深刻な欠陥、しかもいちばん重要な部分での欠陥を示唆してはいないだろうか。子供は、地価が 40ポンド のところよりも 9,500ポンド の場所のほうが、教育しやすいのだろうか。ロンドンがその他の目的にとっては真に経済的な価値を持っているかもしれないが――これについてはまた後でふれよう――学校という目的の場合、学校の建つ敷地が薄汚い工場や混雑した中庭や小道に囲まれているメリットというのはいったいなんだろう。銀行にとって理想的な立地がロンバルド街なら、学校にとって理想的な場所は、田園都市のセントラル・アベニューのような公園ではないか?――そして秩序だったコミュニティの第一の懸案事項は、われわれの子供たちの福祉ではないだろうか」

 だが、異論もあるだろう。「子供は家の近くで教育を受けなくてはならず、そして家は両親たちの働く場所に近くなくてはならない」。そのとおり。しかしながら、このスキームはきわめて効果的にこれに対応した方式を提供しているし、それにまた田園都市の学校はロンドンのものよりも優れているではないか。子供は、平均で費やす通学時間も短くてすむ。これは教育者たちだれもが認めるように、冬場には特にきわめてだいじになる点だ。

 さらにいえば、マーシャル教授も言っているではないか(本章の冒頭の引用を見よ)。「ロンドンの衣服製造業で雇われている 15万人 ほどの労働者のうち、その大多数はきわめて低賃金で、あらゆる経済的な理由から見て、地代の高いところで行われるべきではないような作業をしている」と。つまり言い換えれば、その 15万人 はそもそもロンドンにいるべきではないのだ。そして、そういう労働者の子供たちの教育が、すさまじく劣った環境で、とてつもないコストをかけて行われているということを考えると、教授の発言はいっそう重みをますのではないだろうか。もしこの労働者たちがロンドンにいるべきでないなら、かれらの家(いまはあれだけ不衛生なのに、高価な賃料を払っている)もロンドンにあるべきではないのだ。かれらのニーズを満たす商店所有者の一部も、ロンドンにいるべきではないのだ。そして、衣服製造でかれらの稼いだ賃金により雇用が創出されているさまざまな人々も、ロンドンにいるべきではない。

 したがって、田園都市の学校敷地とロンドンの学校敷地を比べるのは、まちがいなくフェアだという印象――それもきわめて現実的なもの――はある。というのも、もしこの人たちがマーシャル教授の示唆するようにロンドンから移住すれば、かれらは(わたしが示唆したような、ちゃんとした事前の準備をしておけば)、自分の仕事場の敷地地代を大いに節約できるし、住居や学校やその他の用途の敷地についても地代を大幅に節約できる。そしてこの節約分というのは、もちろんいま支払っている金額と、新しい条件の下で支払われる金額との差から、移転で生じた損害(あれば)を差し引き、さらにそうした移転で得られる大量の利益を足したものだ。

 議論をはっきりさせるために、別の形で比較をしてみよう。ロンドンの人々は、ロンドン学校委員会が持っている学校敷地用の支払いとして、全人口(ここでは600万と想定)の一人あたりにして 0.58ポンド 強の出資金を支払ったことになる。この金額はもちろん、私立学校の敷地は含んでいない。田園都市の住民3万人は、この一人頭 0.58ポンド(訳注:原文は11シリング6ペンス)を完全に節約するわけで、これは総額 17,250ポンド 。利率 3% で考えると、これは毎年 517ポンド を永遠に払いつづけるのと同じことなので、それが節約できることになる。そして、このように、学校敷地の費用の金利にあたる年 517ポンド を節約するだけでなく、田園都市が学校用に確保した敷地は、ロンドンの学校とは比較にならないくらい優れている――町のすべての児童を十分に収容できるだけの広さを持っているのだ。ロンドン学校委員会のように、自治体内の児童の半分にしか対応できないようなものではない。(ロンドン学校委員会による学校の敷地は合計370エーカー、つまり人口 16,000人 あたり 1エーカー となるが、田園都市の人々は、合計24エーカー、つまり人口 1,250人 あたり 1エーカー の敷地を取得している。)言い換えると、田園都市の確保している用地は、ずっと広く、立地もよく、あらゆる意味で教育目的に適しているのに、そのコストは、あらゆる意味でこれより劣っているロンドンの敷地のほんの一部で済んでいるわけだ。

 こうして論じてきた経済性は、すでに述べた二つの簡単な工夫から生じているのだ、ということがわかるだろう。まず、移住によって新たな価値が生じる前に土地を買っておくことで、移住してくる人々はきわめて低額で土地を購入し、その後の価値上昇分を自分たちや、あとからやってくる人々のために確保しておける。そして第二に、新しい敷地にやってくることで、古い建物に大金を支払う必要もないし、営業中断の補償や多額の法廷費用も支払わなくていい。この多大なメリットのうち最初のものを、ロンドンの貧しい労働者に提供するのはきわめて有益なことだ。これについて、マーシャル教授は Contemporary Review 誌の記事では一時的に見落としているようだ(もちろんこの可能性についていちばんよく理解しているのは、マーシャル教授自身である。『経済学原理』第二版、第5巻、10章と13章を見よ)。教授はこう書いている。「最終的には、この移住によってあらゆる人がメリットを得るが、中でも最大のメリットを受けるのは、地主たちとその入植地につながる鉄道である」(強調はわたしがつけたものだ)。

 それならば、ここで提案された工夫について、以下のことを確認しようではないか。つまり、いまは社会の下層部にいる階級を助けるよう特に設計されたプロジェクトによって、最大のメリットを受けるという地主たちは、まさにその下層部の人々自身である。かれらは新しい自治体のメンバーとなり、そしてかれらが変わるために、強力な支援が追加でさしのべられる。これまでそうした支援がなされなかったのは、単にこれまで組織的な努力がなかったからというだけだ。そして鉄道が手にするメリットといえば、町の建設が敷地を通る鉄道の本線にとって大きなメリットとなるのはまちがいない。 でも人々の稼ぎが鉄道の輸送料や扱い手数料で目減りする割合は、ほかのところほどではないというのも、これまた事実なのである(第二章と、第五章の歳出詳細を述べたページを参照)。

 ここで経済において、まったく計算不可能な部分について扱おう。これは、この町が完全に計画されているということからくる。このため、自治体の管理運営という問題すべてが、一本の遠大なスキームに基づいて処理できるようになるのだ。最終的なスキームが、一人の頭脳によって考案されるというのは、いかなる意味でも必要ないことだし、それに人間として考えてみてもそんなことは不可能だろう。最終的なスキームは、多くの頭脳の成果となる――エンジニアの頭脳、建築家や測量士、景観造園士、電気技師などだ。しかしこれまでも述べたように、デザインと目的の間の統一性は不可欠である――つまり、町は全体として計画されるべきで、イギリスのあらゆる町(そして多かれ少なかれ、他国の町でも)のような混沌とした成長に任せられるべきではない。町は、花や樹や動物のように、成長のあらゆる段階で統一性と対称性と完全性を備えているべきであり、成長の結果としてその統一性が破壊されてはならず、むしろ成長がその統一性にもっと大きな目的を与えるようにならなくてはならない。対称性が破壊されてはならず、もっと完全な対称性を創り出さなくてはならない。初期の構造の完全性は、後の発展のさらに大きな完全性の一部となるべきなのだ。

原注:一般に、アメリカの都市は計画されていると思われている。これは事実ではあるが、きわめて不十分な意味においてでしかない。アメリカの都市はたしかに、複雑な迷路のような街路でできてはいないし、牛が描き出したかのような線形の道路もない。そしてアメリカの都市は、とても古い町いくつかをのぞけばどこでも、数日滞在すれば、だいたいは勝手がわかるようになる。しかしそれでも本当の意味でのデザインはほとんどないし、あってもきわめて粗雑な代物でしかない。一部の街路が造られて、それが都市の成長にともなって、単に延長されて繰り返され、その単調さはほとんど途切れることがない。ワシントンは、街路のレイアウトという意味ではすばらしい例外だ。でもこのワシントンですら、住民がすぐに自然にアクセスできるようにするといった視点ではデザインされていないし、公園が中心になく、学校などの建物も科学的な方法で配置されてはいない。

 田園都市は計画されているのみならず、最新の現代的なニーズまで視野に入れたうえで計画されている。そして古い道具をつぎはぎで変更するよりも、新しい材料で新しい道具をつくりなおしたほうが、明らかに簡単だし、ふつうはずっと経済的であり、完全な満足を得やすい。経済性のこの面については、具体的な例で説明するのがいちばんいいだろう。そして非常に示唆的な一例がここに登場する。

原注:「ロンドンは混乱しきった成長をとげ、デザイン面での統一性は一切なく、建築活動が時代を追って必要になるにつれて、たまたま運良く土地を所有していた適当な人々の気まぐれな判断に任されてきた。時々、偉大な地主がいて、高い階級の住人を広場や庭園や引っ込んだ道などで誘致しようとして、ある一角をレイアウトする。そうした区画は、門や柵で通過交通を排除している。しかしそういう場合ですら、全体としてのロンドンのことは考えられていないし、中心的な大通りは造られていない。そしてその他のもっと数多くある小地主の場合、施主の唯一のデザインというのは、その土地にできるだけ多くの通りと建物を詰め込んで、そのまわりにあるものは一切無視して、オープンスペースや広い街路など一顧だにしないということだ。ロンドンの地図を注意して見れば、その成長過程でここにいかなる計画も一切なかったことがわかるし、都市の全住民の便宜やニーズ、あるいは尊厳や美しさといった配慮が、ほとんどなかったこともわかるだろう。」枢密顧問官 G.J.ショー・ルフェーブル、「ニューレビュー」、1891年、p.435

 ロンドンでは、ホルボーンとストランドの間に新しい道路を通すという問題が、何年にもわたって検討されつづけていて、延々と計画が実施され、ロンドンの人々にすさまじいコストをかけている。

「ロンドンの街路地理がこのように変更されるたびに、貧困者が何千人も追い立てられる」――これは1898年7月6日の Daily Chronicle の引用だ――「そして何年にもわたり、すべての公共または準公共の計画は、そうした貧困者をなるべく多く転居させる費用負担を強いられてきた。これはまさにそうあるべきだ。しかしながら公共が実際にその現場にきて、実際に支払いをする段階になると、話がむずかしくなってくる。いまのケースでは、労働者人口三千人が移転しなくてはならない。問題の核心をさぐるうちに、その労働者のほとんどは雇用の面で、いまの住所と密接に結びついていることが判明し、だからかれらを1マイル以上遠くに移転させるのは困難だ、ということになる。結果としては、ロンドン市はかれらを移転させるのに、現金で一人あたり約100ポンド支払わなくてはならない――総額では300,000ポンドだ。一マイル移転してくれという依頼さえ不当だと思われる人々――市場のゴネ屋、その場を離れようとしない人々――の場合、コストはもっと高くなる。かれらは、この大計画自体によってクリアリングされた土地の一区画を必要とすることになるので、結果としてはかれらに260ポンドの立派な家屋を与え、つまり5、6人世帯に一軒1,400ポンドを渡すことになる。

 数字を並べるだけでは、あまりピンとこないだろう。1,400ポンドといえば、住宅市場では、年100ポンド近い家賃に相当する。1,400ポンドあれば、ハムステッドに立派どころか豪勢な庭付きの家が買えてしまう。中流階級の上の方にいる人でも大喜びするような家だ。近場の郊外のどこでも、1,400ポンドあれば年収1,000ポンドの人が住まうような家が買える。もっと郊外の、市の事務員が列車で楽に通勤できるようなところまで行けば、1,400ポンドの家というのは大豪邸となる。」

 しかしながら、妻と子供四人をかかえたコベントガーデンの哀れな労働者は、どれほど快適に暮らせるというのだろうか。1,400ポンドあっても、これはコベントガーデンではまっとうな快適さをもたらすものではないし、まして豪勢などほど遠い。「この労働者は、最低でも3階建ての住宅の、かなり狭い3部屋しかない、えらく小さな区分所有住宅に住むことになるだろう」。これを、最初から遠大な計画を慎重にたてた新地域で可能なことと比べてみよう。ロンドンで計画されているよりも広幅員の道路が、コスト的にはごくわずかな金額で敷設・建設されるし、1,400ポンドという金額も、一世帯に「最低でも3階建ての住宅の、かなり狭い3部屋しかない、えらく小さな区分所有住宅」を提供するかわりに、田園都市ではすてきな庭付きの快適な6部屋戸建て住宅を、7世帯に提供できる。そして同時に製造業者は専用の区域に立地するよう奨励されるので、各大黒柱は職場から歩いて通勤できるところに住めるのだ。

 また、すべての町や都市が満たすように設計すべき、現代的なニーズがある――現代的な衛生観念の発展とともにあらわれたニーズで、近年では発明が急速に進展したことで加速されている。下水処理や雨水排水、上水、ガス、電信電話線、電灯線、動力伝達用の線、郵便用の気送管などは、必要不可欠とはいわないまでも、経済的なものと見なされるようになってきた。でも、これらが古い都市で経済性のもとだというなら、新しい都市でどれほどの経済性をもたらすか考えてほしい。白紙の上ならばその建設に最新の装置を使うのも簡単になるし、こうした地下共同溝が収容するサービスの数が増えるにつれて、共同溝のメリットも増大し続け、人々はそれを最大限に享受することができるようになる。 地下共同溝をつくる前に、かなり大きく深い溝を掘らなくてはならない(訳注:もちろん当時はシールド工法なんかないから、穴は上から掘るしかない)。これを掘るのに、最新の掘削機械が活用できる。古い町では、こういう機械の使用はとても迷惑かもしれないし、下手をすれば不可能かもしれない。だがこの田園都市では、蒸気の工夫たちは人々の住んでいるところには顔を出さず、かれらが共同溝を用意する工事を終えたあとで、人々がそこに住みにやってくるのだ。イギリスの人々が、まさに目の前の実例として、機械が最終的な国の便益だけでなく、人々の直接的で即座のメリットを生み出すために使えるということをまのあたりにできれば、すばらしいことではないか。しかもそのメリットを被るのが、機械を所有したり使ったりする人々だけでなく、その魔法のような支援によって職を得られる人にもメリットがおよぶことが示されれば、すばらしいことだろう。この国の人々、いやこの国に限らずほかの国の人々も、機械の大量使用が職を奪うだけではなく職を与える――労働にとってかわるだけでなく、労働を創り出す――そして人々を奴隷化するだけでなく、解放もしてくれるのだということも、現実の例から学んでくれる日がくれば、なんとすばらしいことか。

訳注:ここらへんの記述はもちろん、ラッダイト運動を念頭においている。

 田園都市では、やるべき仕事はたくさんある。それは言うまでもない。さらに言うまでもなく、大量の家や工場が建設されるまでは、こうしたことの多くは実行不可能だし、穴がさっさと掘られて地下溝が完成し、工場や家屋が建設されて、電灯や電力がつけば、生産的で幸せな人々の故郷たるこの町もさっさと建設できるわけだし、他の人たちが他の町の建設にかかるのも早くなる。他の町は、この町と同じようにはならず、だんだんこの町よりずっと優れたものになるだろう。いまの機関車が、機械駆動の初期の粗雑な先駆物と比べてずっと優れているように。

 いまやわれわれは、一定の歳入が田園都市では、通常の状況よりも莫大に大きな結果を生み出すのかという、説得力あふれる理由を4つ示したわけだ。

  1. 土地占有について、純歳入を推定するときに挙げた少額以外には、「地主地代」または利子を支払わなくてすむこと。
  2. 敷地には既存の建物や建築物がほぼまったく存在せず、したがってそうした建物を購入したり、事業中断の補償費用を支払ったり、法定費用などの関連支出もほとんど存在しないこと。
  3. がっちりした計画、特に現代的なニーズや必要性に沿った計画から生まれる経済性により、古い都市に現代的なアイデアを調和させようとするときの各種支出が節約できること。
  4. 全敷地が活動のために解放されているので、道路の敷設などのエンジニアリング作業に最新最高の機械を導入できるという見こみ。

 読者は読み進むうちに、これ以外の経済性にも気がつくことだろう。しかしおおまかな原理について論じて下地ができた以上、( 50,000ポンド という)推定額が十分かどうかを別章で検討する準備も、十分に整ったはずだ。

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第 5 章 田園都市の歳出詳細

「ああ、国の運命を支配する者たちが、以下をわすれないでくれさえしたら――社会的な品位が失われているか、そもそも見つからないような、密集したむさくるしい集合住宅に住む極貧層にとって、あらゆる家庭的美徳を生み出す家庭への愛を育むのがいかに難しいかをわすれないでいてくれれば――幅の広い大通りや大邸宅からちょっと脇を見て、貧困のみが闊歩する脇道のどうしようもない住居を改善しようと努力さえしてくれれば――そうすれば多くの低い屋根は、真の意味で空を目指してのびることだろう。いま豪壮な高屋根が誇らしげにそびえ立つのは、罪と犯罪とおそろしい疫病のただなかからであり、これらをその対比によってあざ笑うためなのだ。タコ部屋や病院、牢獄からのうつろな声により、この真実は毎日のように説かれ、そして何年にもわたり宣言されてきたのだ。これは軽々しい問題ではない――卑しき労働階級からのさけびなどではない――水曜の晩に口笛を吹いて一蹴できるような、単なる人々の健康や快適さの問題ではない。国への愛は、家庭への愛から生まれ出るもの。そして、真の愛国者たるのはだれだろう、有事の際にあてになるのはどちらだろう――大地を崇拝し、その木々や流れや地面とそこで作られるものすべてを所有している者たちだろうか、それとも国を愛しつつも、その広い領土の一片たりとも我がものと宣言できぬ者たちだろうか?」――チャールズ・ディケンズ「古い奇妙な店」(1841)

 一般読者にとってこの章をおもしろいものにするのはむずかしいか、あるいは不可能かもしれない。しかしながら、慎重に検討してもらえば、この章は本書の大きな論点の一つを十分に論証してくれるものだと思う。つまり、きちんと計画された町を農業地に建設したときの税・地代は、そうした自治体が通常は強制的に徴収する税金の中から工面して行うような公共工事を行い、その維持管理をするのに十分足りるだけのものとなる、という論点だ。

 債券の利息を払い、用地の土地代用の積立金を積んで残る金額は、すでに年 50,000ポンド と推計されている(第3章の使途の表を見よ)。第4章で、田園都市における一定の支出が他とは比較にならないくらい生産的になることを示したので、こんどはもっと詳しい細部に踏み込むことにする。そうすれば本書が引き起こす各種の批判も、具体的なものをもとに議論ができるから、ここで提案しているような実験を用意する基盤としてもっと有意義になるだろう。

表 4:田園都市の初期投資と維持管理費
以下の解説参照初期投資(ポンド)維持費と運転資金(ポンド)
(A)街路25マイル(市街部)1マイル 4,000ポンド100,0002,500
(B)追加街路6マイル(農地部)1マイル 1,200ポンド7,200350
(C)環状鉄道と橋梁 5.5マイル、単価 3,000ポンド16,5001,500(維持費のみ)
(D)6,400 児童または総人口の 1/5 が通う学校、1人あたり初期投資 12 ポンドで維持管理等 3ポンド76,80019,200
(E)市役所10,0002,000
(F)市役所10,000600
(G)美術館10,000600
(H)公園、単価 50 ポンドで25 エーカー12,5001,250
(I)下水処理20,0001,000
小計263,00029,000
(K)263,000 ポンドの利息4.5%11,835
(L)債務30年返済用積立金4,480
(M)敷地所在の自治体に支払う税金用の残金4,685
総計50,000

 上記の支出以外に、市場の建設、上水道、照明、路面電車など、収益を生む公共工事のためにかなりの初期投資が必要となる。しかしこういった支出項目は、ほぼ例外なしにたっぷりとした収益で報われるものであり、それが税収の助けとなる。したがってこれらはここでの計算に加える必要はない。

訳注:なぜ上記の表に (J) がないのかはよくわからない。

 では上記の試算に含まれたほとんどの項目を個別に見ていこう。

(A) 街路や道路

 この項目でまず理解すべき点は、人口増加に伴って新しい街路を造るコストは、ふつうは地主が負うことはないし、税収から支払われることもない、ということだ。それは通常、建物の施主が支払い、それを地方自治体が無料の贈り物として接収することになる。したがって、この 100,000ポンド のかなりの部分は、不要になるかもしれないのは明らかだろう。専門家ならまた、道路用地のコストは別のところで準備してあったことを覚えていてくれるはずだ。試算額が十分かどうかという問題を考えるなら、大通りの半分と、街路や通りの 1/3 は公園の性格を持つものと考えられるから、それを敷設して維持管理するコストは「公園」の費目で扱われることも留意してほしい。さらに道路の建設材料は近場で得られるはずだし、鉄道のおかげで道路からは激しい交通がなくなるために、あまり高価な舗装は必要ないかもしれないことも考えてほしい。

 しかし、この 4,000ポンド というコストは、地下共同溝を作るなら(そしてそれはおそらく必要だろう)まちがいなく不足だ。しかし、以下のような考察から、わたしはこのコストは推計しないことにした。地下共同溝は、それが役にたつところでは、経済性をもたらすはずなのだ。水道やガス、電力幹線の敷設や補修で絶えず路面を掘り起こしたりしないから、道路の維持管理費は下がるし、ガスや水道などの漏れもすぐに見つかるようになるから、共同溝はコスト的に引き合う。だから共同溝のコストは、水道やガス、電気設備などのコストに含まれるべきだし、こういうサービスはほぼまちがいなく、それを建設する企業や協同組合にとっては歳入源となるのだ。

(B) 地方道

これらの道路は、幅がたった13メートル(40フィート)だし、1マイルあたり1,200ポンドで充分だろう。この場合、用地費は推計に含めなくてはいけない。

(C) 環状鉄道と橋梁

 用地費はすでに別のところで手当されている(鉄道用地の議論を見よ)。維持管理にはもちろん、運転資金(たとえば機関車の費用など)は含まれていない。これをカバーするには、コストに基づいて商人たちに料金支払いを要求することが考えられる。道路の場合と同じく、こうしたコストが税・地代から支払えることを示すことで、わたしがそもそも証明しようとしていた以上のことが証明されているということは、留意していただきたい。わたしが証明しているのは、税・地代が地主地代をまかなうのに十分だというだけでなく(というのも、そういう目的の費用は賃料から支出されるのがふつうだからだ)、さらには自治体としての活動領域を大いに拡大するのにも十分だということなのだ。

 ここで、この環状鉄道が商人にとって、自分の倉庫なり工場なりから物資を輸送する費用を節約してくれるだけでなく、鉄道会社からのリベートを得るためにも役にたつことを指摘しておくといいだろう。1894年の鉄道運河料金法の第4条によると、以下のように定められている:

「商品が鉄道会社によって、その鉄道会社の所有ではない支線や分岐線で配送されて鉄道会社とその商品の発送者または受取人との間で、その発送人なり受取人なりに化された料金についての割引やリベートについて紛争が生じた場合には、鉄道会社が鉄道駅の保管サービスや終着駅サービスを提供しない場合については、公正かつ正当な割引やリベートの水準として何が正当であるかについてヒアリングを実施して決断する権限は鉄道運河コミッショナーが保有する」

(D) 学校

 学校生徒一人あたり12ポンドという試算は、ほんの数年前(1892年)にロンドン学校委員会において、学校の建築、設計、工事監理、さらには内装や外装費用の一人あたりコストに相当するものだ。そしてこの金額で、ロンドンよりはるかに優れた建物が建てられることは、だれでもわかるはずだ。敷地の節約についてはすでに述べたが、ロンドンでは児童一人あたりの敷地費用は 6.58 ポンド(訳注:原文は6ポンド11シリング10ペンス)だということは述べておこう。

 この試算がいかに十分かを示すためには、イーストボーンで私企業が建てようとしている学校のコストを見てやることができる。この学校は「学校委員会に手を触れさせない」ことを狙って建てられており、定員 400 児童で 2,500 ポンドと推計されている。これは田園都市の試算で、一人あたりの学校コスト合計の半分よりちょっと多い程度のものだ。

 維持管理コスト、児童一人あたり 3 ポンドというのはたぶん充分な額だろう。教育協議会の委員会報告、1896-7、c.8545で、イングランドとウェールズにおける「実際の平均就学学生一人あたり支出」は 2.6 ポンド(2ポンド11シリング11.5ペンス)となっていることからもそう判断できる。さらに述べておくべきこととして、この試算では教育費用はすべて田園都市が負担することになっているけれど、実はそのかなりの部分は、ふつうは国の大蔵省が負担するものだ、という点がある。前出の報告書によると、イングランドとウェールズにおける、実際の平均就学学生一人あたり歳入は、1.06 ポンドだが、田園都市ではこれが 3 ポンドだ。したがってここでもわたしは、そもそも証明しようとした以上のことを証明しているわけだ。

(E) 市役所と管理運営費用

 さまざまな公共事業の試算は、専門的な監理と建築家やエンジニア、教師などの監督費用もカバーするものと想定されている。この費目での維持管理と運転資金 2,000 ポンドは、それぞれ個別の費目でカバーされている以外の市の職員や、係官の給料と、臨時支出だけをカバーするものである。

(F) 図書館、(G) 美術館

 たいがいの場合、後者は税収入以外の資金源で作られることが多いし、前者もそういうケースがめずらしくない。したがってここでもまた、わたしは、必要以上に自分の主張を証明してしていることになる。

(H) 公園と街路の植栽

 この費目は、事業全体が完全に良好な財務状況になるまでは発生しないし、公園の空間はかなりの期間にわたって農業地として歳入源になることも考えられる。さらに、公園空間のかなりの部分は、自然状態のままで残されることになるだろう。公園空間のうち、40エーカー(16ha)は道路の植栽部分だが、街路樹や茂みの移植は大した費用はかからない。また、公園空間のかなりの部分はクリケット場や芝テニスコートなどの競技場として確保され、こうした公共のグラウンドを使うクラブに対し、それらの整備費用についてある程度負担を求めてもいいだろう。これはほかのところでふつうに行われていることだ。

(I) 下水処理

 この点について言うべきことはすべて、第1章第2章で述べた。

(K) 利息

 これまで扱ってきた公共事業の建設に必要な資金は、金利 4.5% で借り入れる予定となっている。ここで起きる問題は――第4章で一部とりあげた問題だが――「B」債券で融資する人々は、どのような担保を得られるのだろうか、ということだ。

 わたしの答えは3つある。

  1. 土地の改善や建築のためにお金を提供する者にとって、そのお金の安全性のかなりの部分を決めるのは、実際にはそうやって提供された資金がいかに有効に使われるかということだ。そしてこの事実を適用すれば、投資を行う公共として資金提供を求められてきた類似の改善や建築と比べたとき、道路延長で見ても、得られる公園の広さからみても、きちんと就学環境を提供された児童の数から見ても、支出の有効性という点ではこれほどの安全性を持ったものは他にないと断言してもいい。
  2. 土地の改善や建築のためにお金を提供する者にとって、そのお金の安全性のかなりの部分を決めるのは、ほかの人たちが独自の支出を行って同時に実行する、その他のもっと価値の高い作業が存在するかしないか、という考慮である。つまり最初に述べた資金の提供の担保となるのは、ほかの事業ということになる。そしてこの二番目の事実を適用して、ここに述べた公共事業を実施するための資金は、ほかの上物――工場や家屋、店舗など(これはいつの時点でも、必要な公共工事よりはるかに高価につく)――が建設されようとしていたり、あるいは建設中だったりするときに限ってのみ、募集されるので、その安全性の質はきわめて高いものとなると言える。
  3. 農用地を市街地、しかも考え得る最高の市街地に変えるのに使うお金の場合以上に安全性の高いものは、ほとんどないと言っていい。
     この事業は実は3%の安全性を持った事業方式であり、事業の後の段階では、実際に3%の利息を提供するものとなるだろうということについては、わたしはほとんど疑問視していない。しかしながらわたしとしては、各種の目新しい部分こそがこの事業を安全にしているものであっても、目新しいがゆえに安全には見えないということも理解しているし、だから投資機会を求めているだけの人にしてみれば、目新しいがゆえに信用できないと見るかもしれない点もわすれてはいない。最初の例では、資金を提供する人の動機はいささか入り混じったものになっていると考えざるを得まい――公共心や事業精神に加えて、一部の人は、自分たちの買った債券をプレミアムつきで転売できるだろうという信念を胸中に持っているはずだ。そして実際、プレミアムつきでの転売はできるはずだ。したがって、ここでわたしは 4.5% を提示しておくけれど、それで良心が痛む人がいれば、その人は2%や 2.5% で応募してくれてもいいし、無利息で資金を提供してくれてもまったくかまわない。

訳注:これは事業がもうからないと言っているのではない。ハイリスク・ハイリターンの原則をもとに、投資リスクが低いから3%でもみんなが喜んで投資するくらい安全なのだ、という話をしている。

(L) 積立金

 積立金は、負債を30年で完済するためのものだが、これほど長期にわたる事業のために地方自治体がふつうは提供するものと比べて、条件はきわめてよい。地方自治体の行政府は、もっと長期にわたる元金返済積立金を持った債券発行をしょっちゅう認めている。さらに、敷地の土地代についての積立金はすでに別のところで確保してあることもお忘れなく(第4章の積立金の説明を見よ)。

(M) 敷地所在の自治体に支払う税金用の残金

 田園都市のスキームが、外の所在地方自治体のリソースにかける負担がきわめて少ないのは、いずれわかるだろう。道路や下水、学校、公園、図書館などは、この新しい「自治体」の資金をもとに作られる。現在この敷地にいる農業者にとっては、このスキーム全体は「税負担援助」のような存在となるはずだ。というのも、税金というのは公共事業のために徴収されるものなのだから、税収から新規に求められる支出がほとんどかまったくないのに、納税者の数は大幅に増える以上、一人あたりの税金はどうしたって下がるしかないからだ。

 しかしながら、田園都市のような自発的組織が代替できない機能もあることも、わすれてはいない。たとえば警察や、貧困者救済の措置などだ。後者については、このスキーム全体によって、そうした目的での徴税は不要になるはずだ。田園都市は、最悪でも用地費の支払いが完全に終わった時点以降では、物いりな高齢市民全員のための年金を提供するからだ。一方で田園都市は、その発端から慈善事業はめいっぱい行う。様々な機関のために合計12haの敷地を確保してあるし、いずれはそうした機関の維持運営コストもすべて負担するようになるのはまちがいない。

 警察のための徴税となると、町に30,000人の市民が入居することで、それが大して増えることがあるとは考えられない。この30,000人はほとんどが法を遵守する階級に属している。というのも